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「北海道保健医新聞」掲載記事、筆者 門崎 允昭

<鹿は害獣か>  2011 年 2 月 20 日掲載予定

 最近急にマスコミで「鹿が全道的に増え過ぎて」農作物や牧草の食害・山林での樹皮喰ジュヒグいや高山植物の食害で、北海道の農林業と自然は壊滅カイメツするから、「囲カコいの中に餌エサを置いて鹿を誘オビき寄せ一網打尽に殺す」等のキャンペーン報道が続いている。ここで私が指摘したいのは、数年毎に特定の獣を害獣視し、今回の鹿と同様なキヤンペーンが 20 年以上も前から多額の税金を使い続いている事だ。先ず 20 年前には羆ヒグマとの共存を図るためと称し、外国から学者を呼びフォーラム等の祭り騒ぎをしたが、その結末は「熊に襲われたら死んだ振フりをすべし」との妄言モウゲンパンフレットを道庁が今も作り、未だに毎年 3 〜 5 百頭もの羆を殺している現状だ。羆の次は「エキノコックス被害」を防ぐためと称し、狐キツネを害獣視し世間を賑ニギわせた。さらにその次は「洗熊アライグマの害獣キャンペーン」が数年続き、作秋サクシュウそれが下火になったと思ったら、今度は鹿である。これには常に自然保護を公的に主管する道庁と害獣視の根拠作りをし調査費等の利権に群がる研究者と NPO なる非営利団体、そしてその話題を持モて囃ハヤすマスコミが常に一体化していることだ。これを皆さんはどう看ミるか。鹿は冬を生き抜く術スベとして、樹皮ジュヒや小樹ショウジュを食べるがこの生態は太古からの常態ジョウタイであり、これで森林が壊滅するとすれば、その主因は人間が明治以来無分別に樹を伐採し、自然に合致しない植林・育木イクボクなどの林政を行ってきた結果である。鹿が高山植物を食することも太古からの摂理セツリである。北海道の森林面積は、全道の 71.5% を占め、実面積は5万6千2百平方キロ。昔も今も国立公園内の殆どの地域が経済林として伐木されているが、それは止めるべきであろう。先ず、森林の利用区分を大胆に決めるべきである。私は森林面積の10%、具体的には、大雪山地域23万f、日高山地25万f、知床・阿寒地域8万fの合計56万f(これは全道の森林面積の10%に相当)を、総ての自然の保存地とし、伐木・動物の駆除・狩猟

を禁止し、未来永劫、そこに暮らす動植物と我らの子孫のために残すべきだと強く思う。そして林業は他所で大いに振興したら良い。作物の獣害は出没箇所に地面から高さ 2m 迄目幅 15cm の有刺鉄線柵を張れば防止出来る。野生動物との共存は「野生生物に対する倫理リンリ ( 生物の一員として人が為ナすべき正しき道 ) 」の問題である。人が静かな心で自然と共存する日の到来は何時なのか、私はその日を強く望み今シリーズの筆を擱オく。

 

< 啼兎発見裏話>  2010 年 12 月 20 日掲載

 日本では本道の大雪タイセツ山・日高ヒダカ山地・天塩テシオ山地・夕張ユウバリ山地などに棲息し、今日コンニチでは一般にも馴染ナジミみ深い啼兎ナキウサギと言う動物が本道に居ることが公になったのは 1928 年に、道東の置戸オケトで捕獲されて

> からの事である。本種は溝鼠ドブネズミに似た体形・体色で耳介ジカイが短くどう見ても兎ウサギに見えないが、歯と頭骨の形状が他の兎類と同じなので動物分類上兎科にされ、甲高カンダカい声でピィー・ピィチ・ピィルルルル等とよく啼くので「啼兎」と名付けられた。他の兎類は仲間との闘争時に稀にキィーと鳴くことがあるが普段は鳴かない。啼兎は大雪山や日高山地に広く棲息して居り、アイヌはこれらの山地をくまなく跋渉バッショウし峰や沢に表意言語ヒョウイゲンゴのアイヌ語で地名を残しているが、なぜか本種のアイヌ語名や本種にまつわる伝承デンショウが何一つ残っていない。しかし私は狩猟採集を生業とし自然に対する観察眼の鋭いアイヌが啼兎の存在に気付かなかったはずは無いと思っている。一方和人の方であるが、明治 44 年から大正 14 年の間に大雪山に 9 回登山し、延 50 日に及オヨび大雪山の地理や生物を調査した博物学者の小泉秀雄コイズミヒデオさんや大正 14 年のその調査に参加した北大教授で動物学者の犬飼哲夫イヌカイテツオさん達は啼兎の存在に気付かなかった。その原因は、犬飼さんが置戸で啼兎が発見された後の論文に「縞栗鼠シマリスと啼兎ナキウサギは鳴き声が似ていると書いており ( 実際は全く異なるが ) 、それを詮索センサクすると、小泉さんも犬飼さんも啼兎の声を縞栗鼠の声と信じその方の調査を行わなかったために大雪山で啼兎を当時発見できなかったと言うのが真実だと私は考えている。発見動物の学術的公表は最初に学名を与え活字化した者が第1記載者の名誉を得るが、啼兎については、動物学者の岸田久吉キシダキュウキチさんと犬飼哲夫さんがその先取権を競キソい岸田さんがそれを得た。以下の話は犬飼さんから私が直接聞いたことだが、犬飼さんは「岸田さんの記載月に作為があるとし、異議を伝えに岸田さん宅に行ったが、幼子が居て戸障子が破れ放題の赤貧セキヒンを見てそれを言えず土産だけ置いて早々に家を出たと言う。また十勝の然別地区の開拓民は入植時の明治から、既に本種が然別地区に居ることを知っていてこれを「ゴンボネズミ(泣き叫ぶ義?)」と呼んでいたが、然別地区は辺鄙ヘンピなところで、それが知れたのは置戸オケトでの捕獲から数年後のことだと言う。

 

 

<身近な獣・狸> 2010 年 11 月 20 日掲載

 

狸タヌキは陰茎骨があり、頭骨歯手足の形状が犬狐などと共通しているので、動物分類上犬科であるが、四肢が短くずんぐりした体で走り歩く様は、犬狐と異なり正に民話の「分福茶釜ブンブクチャガマ」の茶釜が地面を動き行く姿を彷彿ホウフツさせる。狸をなぜ和語で「たぬき」と発音するかは不明だが、表意言語であるアイヌ語では狸を suke ( 熊の飯を炊く ) mo ( 鈍ドン ) yuk ( 獣ジュウ ) と言い、本種の目から頬ホホにかけての黒毛は煤ススの汚れだと言う。

 本種は温暖地を好み図太ズブトい性格のため、本州以南では民家の床下ユカシタ等に夫婦・家族で棲み田でタニシや蛙カエルを喰い、樹に登り果実を食べる「そこで本種を木登犬キノボリイヌとも言う」など日常馴染み深い獣だが、気候冷涼な北海道では数が少なく狸を見る機会は少ない。 狸はアジア大陸でその祖型から進化出現し、本道へは 13 万年以上前の氷河期に陸上の雪氷の増加で海水が減少し、海面が今よりも 140 b程低下して大陸と日本列島が陸続きとなった時に渡来したもの。まず狸と言えば「死真似シニマネ」「狸寝タヌキネ」「狸タヌキだ ( =しらを切る「知らぬ振り」の義 ) 」などの語を連想レンソウするであろう。実際狸は恐怖心が昂コウずると、突然目を細め気絶しぐったりして、人が手で身体を突こうがを持ち上げようが全く反応しなくなる。だがしばらくすると覚醒する。これは擬死ギシと言う護身生態である。狸は怒ると背を丸め猫に似た声で ミャーゥーと鳴き威嚇イカクする。狸の新生児は全身黒毛故、時に熊の子と誤認されることがある。狸は雑食性で、糞をする場所を決めていて同所に幾度も排泄する習性があり、その溜まった糞を「狸の溜糞タメフン」と言う。

 狸の成獣の刺毛サシゲは数aあって、強靱で弾力性があるので江戸時代から毛筆の筆毛フデゲに用い、昭和になってこの刺毛を抜く技術が考案されてからの毛皮は肌さわりが良く襟巻エリマキとして流行した。また狸の毛皮は毛が密生し、長さも適度な事から、昔は鍛冶屋カジヤの「鞴フイゴ」のピストンに毛皮を巻き空気漏れ止めに用いた。狸汁タヌキジルは美味と言う説と狸の肉は臭くて食えぬと言う両説がある。「狸の睾丸キンタマ八畳敷ハチジョウジキ」の由来として本種の睾丸コウガンと陰嚢インノウは大きく、金泊を延ばす金槌カナズチの外面に陰嚢の鞣ナメし皮を被カブせ用いたからとの説があるが、これは誤りで金箔展ばしに狸の陰嚢の皮など用いなかったと言うし、睾丸陰嚢も程々ホドホドの大きさである。

 

 

<鹿の角は強壮薬か>  2010 年 10 月 20 日掲載

 

中国明ミン時代に李時珍リジチンが撰集した本草綱目ホンゾウコウモク ( 1596 年刊)に「鹿は性セイ淫ミダらなもので、雄は数頭の雌と交マジわる」、「鹿は仙獣センジュウ ( 不老 ) で自ら良く性を楽しむ」とある。北海道の鹿も 10 月の今が発情の盛り、発情した雄は哀調帯びた大声で、ピィーヨウ( 1.5 〜 2 秒間)と啼ナき、雌も時にこれに呼応して、ピーウ( 1.5 〜 2 秒間)と鳴く。雌は 1 〜 2 年に一度発情し、翌年の 6 月に通常 1 頭、稀に 2 頭の子を産む。

 北海道と同種の鹿は世界的には本州・四国・九州・五島列島・屋久島の他、台湾・韓国・中国・ロシアのウスリーに生息しており、千島列島には居ない。北海道では低平地から無雪期には標高 1,500m の亜高山帯までを生活圏としている。本種はアジア大陸でその祖型から進化出現し、本道へは 13 万年以上前の氷河期に陸上の雪氷の増加で海水が減少し、海面が今よりも 140 b程低下して大陸と日本列島が陸続きとなった時に渡来したもの。

 角は雄だけにあり、毎年 4 月〜 5 月に根元(角坐カクザと言う)から外ハズれ落ちる(落角ラッカクする)。まもなく角坐から柔らかい短毛が密生した袋状のブヨブヨした血管の集まりからなるいわゆる「袋角フクロズノ」が生ハえてくる。 7 月〜 8 月には新角シンカクの全体が完成し、石灰化が進み、 9 月頃には硬い骨質の角になる。この角を樹に擦コスり外皮が剥がれると、ゴツゴツした面の角となる。角のゴツゴツした外周の溝は血管跡、暗褐色の着色は袋角の組織が残存したもの。満 1 歳では 1 本角ツノが普通だが、短小な枝角エダツノが 1 本ある 2 尖角センカクもある。 2 歳で枝角 1 〜 2 本( 1 〜 2 カ所で分岐)が普通だが、稀に 3 カ所で分岐した 3 本枝ある 4 尖角もある。 4 〜 5 歳で 3 本枝( 4 尖角)が完成する。後アト、加齢的に角が太く多少長くなる。個体によっては 5 尖角もある。袋角を「強壮剤」にするが(柔らかい袋角を基部の硬い所で切り、これを熱湯で約 3 〜 5 分間煮て、湯から出し、自然に冷ますと袋角の中身が固まる。これを厚さ 5mm 程に輪切りして、焼酎などに入れて保存 ) 。これを飲む。それは袋角が血管の塊で、短期に発生するので、これを陰茎の勃起と関連させ、強壮のシンボルとなったものである。さて、効き目はどうであろうか。

 

 

<北海道の鼠> 2010 年 9 月 20 日掲載

 

北海道には9種の鼠類が昔から棲んでいる。このうち人家を主な棲み場とする鼠を「家鼠」と称し、北海道にはハツカネズミ・ドブネズミ・クマネズミの 3 種が居る。皆さん方もこの家鼠については思い出がおありと思う。 二十日鼠は本道に居る鼠の中で身体が最小の種で、その呼称は妊娠期間が約 20 日間であることによる。溝鼠は昔、溝付近でよく見られたことと、遊泳が巧みなことによる呼称で、本道の鼠の中で身体が最大の種である。熊鼠は体毛に熊の毛のような硬い刺毛が混ざっていることによる呼称である。

 家鼠は人の食物ならば、ほぼ何でも食べるし、人が食べられない石鹸やローソクなども食べる。 1940 年代までは、家に住み着いた鼠が、天井や壁裏を走り回り糞尿を撒き散らし、壁に穴を穿って、押し入れや室内に出てきて、家具や衣類布団まで齧り、時にはその中に子を産むこともあった。その被害は日常的で、茶箪笥や机の引き出しにまで穴を穿っ

て出入りし、紙まで食害し、蚤虱壁蝨を家中に撒き散らすのではないかと恐れ煩わしかったものである。夜、天井裏をネズミが走り回ると、猫の鳴き真似をしてネズミを脅すと、走り回るのをしばしの間止めたのも懐かしい思い出である。当時は乳飲み子が乳の臭いがすることから溝鼠に囓られて死亡する事件も毎年の様に発生していた。家に住みついた鼠を全部駆除することはなかなか難しかったので、見せしめ的に殺せばと、金網で作られた捕獲篭にカボチャの種を誘餌として仕掛け、捕らえた鼠を篭ごと水に入れて溺死させたりした。また当時のネズミ駆除の毒餌「猫いらず」には燐が含まれていて、暗闇でそれが怪しく青白く光ったものである。他の6種は家屋に入って来ても家に定住せず山野で暮らすことを好むので俗に「野鼠」と総称する。6種とは、身体の背面が茶褐色で、鼠では唯一胡桃に穴を穿って中の実を食べる「赤鼠」、木登りが巧く野鼠では身体が最小な「姫鼠」、歯や後ろ足の形状が赤鼠と多少異なり、樺太での発見が本道より早かった「樺太赤鼠」、通常唯一冬に樹皮や直径5_以下の樹や枝を食べる「蝦夷野地鼠」、身体が蝦夷野地鼠に似ているが樹皮や樹を食べない「帝鼠」、身体は蝦夷野地鼠に似ているが主に標高の高い地所に棲んでいる「無垢毛鼠」である。9種の鼠の内、樺太赤鼠・蝦夷野地鼠・帝鼠・無垢毛鼠の4種は冷涼な気候を好むため、本州以南には居ず日本では本道にだけ棲む。