アイヌとトリカブト

 

         出典「アイヌの矢毒トリカブト(門崎允昭著2,415円)」

                北海道出版企画センタ−刊(2003年)

「アイヌとヒグマ」と「アイヌとトリカブト」の文章は、「財団法人アイヌ文化振興・研究推進機構」の依頼で2005年7月に札幌市で、8月に東京都で筆者が行った講義のテキストです。

1、<アイヌ民族>

アイヌは文字は持たないが、アイヌ語を話す人々で、本州の中部ないし東北部以北から北海道・千島列島・サハリンの先住民である。彼らは国家を形成せず、部族社会を形成し、狩漁と採集を主体とした生業をし、矢毒(狩漁や武器に用いる毒)を用いていた民族である。アイヌの人口は1822年(文政5年)には21,716人、1872年(明治5年)には 15,275人といわれている。 

 

2、<アイヌという語の初出>

「アイヌ」という語は、和語で「人(神に対して)の義」であるが、蝦夷地の先住民を「アイヌ」と呼称記載した最初の文献は、ドイツ人医師で博物学者のラングスドルフ Langsdorff, G. H.で、その著「世界周航記、1812年」に、1805年に蝦夷地の現在の宗谷地方と、サハリンのアニワ湾の北部を訪れた時の見聞から、アイヌという民族名を用い、アイヌの矢毒は野生のAconitumからとったものであろう」と書いている。ラングスドルフはクルゼンシュテルンのロシア世界周航艦隊に参加し、世界を周航した軍医である。

 江戸後期の探検家、最上徳内(1754−1836)の1808年(文化5)の「渡島筆記」には、「夷人自称して「アイノ」という。著者は幕府の役人として天明5年(1785)の30歳の時から、文化7年(1810)の55歳までの間に、蝦夷地に9回来渡し通算12年間滞在しながら、蝦夷の風俗全般を記録したのが本書。正確さと詳細さで他に類を見ない書である。

 

3、<トリカブトの語義>

 「トリカブト」という語は和語(日本語)で、語義は二つある。(1)1つは植物名で、文献に植物の「トリカブト」という語句が使われ始めたのは比較的新しく江戸時代になってかららしい。元禄8年(1695)の伊藤伊兵衛の「花壇地錦抄」巻五、草花秋の部に「菫、●(●は草冠に及)、トリカブト、花形伶人の鳥冠の如く、色薄紫、根は薬の烏頭ウズ也」、1698年の貝原益軒が植物を開花時期に従って編んだ花の図譜「花譜」下巻8月の部に「附子トリカブト」、1713年頃に寺島良安が編んだ江戸時代の百科辞典ともいえる「和漢三才図絵」に「草烏頭ソウウズ゙、俗に止利加布止とりかぶと、葉は菊の葉に似、花形は伶人が着ける鳥冠に似る」とある。(2)奈良時代に中国から伝来した舞楽で、その舞人が頭に被るかぶりものの冠が、中国で先秦時代に(B.C1,122-B.C221)既に創造されていた想像上の鳥である鳳凰を象った兜で、その兜を我が国ではいつの頃からか俗に「鳥兜」といった。いずれにしても鳥の頭部に似た花を咲かせることから自然発生的に呼称されたものであろう。

 

4、<矢毒の種類>

矢毒は2大別される。(1)特定のものを獲る為の矢毒と(2)多数種を獲るための矢毒とである。

(1)には「オニグルミJ. mandshrica」葉樹皮果皮を砕いて川に流し、毒で麻痺して浮いた川魚をとる。「イケマC. caudatum」砕いた根と魚肉を混ぜたもので、鳥をとる。

(2)にはアカエイ類(Dasyatis)の尾の毒針、トリカブトの塊根。

 

5、<矢毒の効用>

矢毒で狩猟した獲物は、矢毒が刺さった部分を少し大きめに取り去れば他部は加熱すれば食べられ、この矢毒を使うことで獲物の神経が麻痺し狩猟時に熊などから逆襲される機会が減少したであろうし、矢毒を付けた仕掛け弓を獣道に多数仕掛けることで猟獲も増加したであろうから、これら矢毒の発見はアイヌを含む多くの狩猟民の生活向上に一大革命をもたらしたに違いない。

 

6、<トリカブト類の分布>

トリカブト類(Aconitum 属)は草本類で、一年で種を残して根を含む全草が枯死する一年生と、種以外の地上部が枯れても地下部の根が生きている多年生(根の一生は1年半「18カ月」である)とがある。世界に現生しているトリカブト属植物は、約480種といわれている(日本では35種、北海道では9種「1999年時点」)。トリカブト類は北半球にだけ分布する植物だが、その分布域は広く、北緯20度以北の暖帯から寒帯まで分布する。分布の南限はアフリカ北部とメキシコ北部である。日本でも北海道から沖縄まで、その付近の島も含めて、海岸付近から、早く雪が訪れ積雪期が長い高山帯まで、広く分布している。

 

7、<アイヌの植物名>

アイヌ民族出身の言語学者知里真志保によると、アイヌの生物の呼称は植物に限って「部分的な呼称」しか持たなかったという。それはアイヌ同士が生活に利害のある植物の、しかも対象となる部分について、誤解なく言葉で意志疎通を図る必要性から編み出された習慣であろう。

アイヌ語でトリカブトの主体語は「suruku」があるが、知里によれば、その意味は「トリカブトの根」だけを指す語だという。

 

8、<surukuという語の初出>

「suruku」の語の初出文献は「松前志(松前廣長著、1781年」である「附子、方俗(方言)これをブスと言う。これの通音(一般的発音)は附子(フシ)。夷人(アイヌ)はシュルグshuruguと言う」である。

 アイヌ語には方言もあり、北海道アイヌは「トリカブトの根」を「スルク、surku」、樺太アイヌは「スルクsuruku」といった。surguという発音もある。

 

9、<トリカブトの部位名>

知里はトリカブトの根、葉、花の三部位についてアイヌ語による呼称を記録している。「葉」はバチラーの辞典から「スルグラ、surugu-ra」を採り「ブシ根についている葉の義」。「花」は、知里が美幌アイヌから採録し「スルクエプイ、ブシ根(suruku)頭部(epuy)」としている。根葉花の三部位に固有名が付いたのは、根は矢毒として重要であり、葉はその特徴的形で複数種を区別したために、また花はその特異的形状が目立つために名がつけられたものであろう。

 

10、<アイヌ語でのトリカブトの種類名>

宮部金吾・神保小虎は「北海道アイヌ植物名詳表(1892)」で、空知アイヌは「ノヤハムシスルク、noya(ヨモギ)ham(葉)us(ついている)surku(附子根)」(エゾトリカブトA. yesoense)と「プイラウシスルク、puy(ヤチブキ)ra(葉)us(ついている)surku(附子根)」(オクトリカブトA. japonicum)をあげており、これは意味的に今で言う植物の種類をいう呼称で、リンネが二命名法を発案する以前の学名を想記させる呼称である「学名Aconitum Napellus(蕪根のaconitum)の形態は、 Aconitum foliorum laciniis linearibus superne latioribus linea exaratis 葉の裂片は線形で上方が幅広く、線状の溝(葉脈を指すらしい)のあるAconitumと記載」。

 

11、<アイヌの生物観>

アイヌの生物観は地上にある動物や植物は総て、「カムイモシリ」と言う天上にある神の国に住んでいる神々がそれぞれの動物や植物に化身して、アイヌに贈りものを届けがてらアイヌの生活ぶりを見み訪れた仮の姿とみていたという。

 

12、<わが国でのアイヌ民族に関する文献での初出>

我が国でアイヌと推察される人々の存在を記述した最初の文献は多分「日本書紀の斉明紀(サイメイキ)(巻26、斉明天皇)」の斉明4年(AD658年)と5年(659)の記述であろう。斉明4年(658年)の記述では「夏4月、安陪臣(アベノオミ)船師(フナイクサ)180艘(フナ)率いて、蝦夷(エミシ、エビス)を伐つ。齶田、渟代の二郡(津軽地方などをいう)の蝦夷望(オセリ)(オ)じて降(シタガ)はむと乞う」とあり、これは本州東北部地域のアイヌを指した記述である。ここでいう「安陪臣(阿倍臣とも書き)」は「阿倍(アベノ)比羅夫(ヒラフ)」のことである。またアイヌを「蝦夷(エゾ)」と呼称する発音は、尾張守(オワリノカミ)親隆(チカタカ)朝臣(アソン)の久安(キュウアン)6年(1150年)御百首(群書類従(グンショルイジュウ)巻169)「えぞがすむ つかろの野辺(ノベ)の 萩(ハギ)ざかり こや錦木(ニシキギ)の たてるなるらん」が最初といわれている。 いずれにしても、「日本書紀」にも「御百首」にも「毒矢」についての記述はない。

 

13、<矢毒使用の文献での初出>

 それではアイヌが生業手段に、毒(毒矢)を使っていたことを明確に示す最古の記録はといえば、桓武(カンム)天皇時世の延暦(エンリャク)年間(A.D782〜806)に3回行われた東夷(トウイ)(本州東北部の夷)征伐関連の記述である。一回目は延暦8年(789)の兵力5万人での征討、二回目は延暦13年(794)の兵力10万人での征討、三回目は延暦20年(801)の兵力4万人での征討である。それは後に仙台藩士の佐藤信要(ノブアキ)が、寛保(カンポウ)元年(1741)に藩内(仙台藩)の名所旧蹟について著した「封内(ホウナイ)名蹟志(メイセキシ)(通俗封内名蹟志)」の巻第12の「遠田(トウダ)郡(現、遠田郡)」の記事に、延暦年間の東夷征伐で功名をあげた武将坂上(サカノウエノ)田村麿(タムラマロ) (AD758生−811没、三回目の遠征時に「征夷大将軍」となった)関連の古地名があり、その中にアイヌの毒矢関連の地名がある。毒矢嶽(夷賊毒矢を射て防ぎし地という)などの注記がある。また「夷箭嶺」の名もあって、これについては、「堂西4丁余、田村麿夷賊に向かい箭を放ち給ふの地という」とある。ようするに、夷が毒矢嶽から毒矢を射り、田村麿軍は射箭嶺から箭を射り、合戦したという史実を地名との関連で述べたものである。これには毒の種類は書かれていないが、アイヌの矢毒の歴史的経過から推察して、毒は附子である。

 

14、<蝦夷地での矢毒使用の文献での初出>

「夫木和歌抄」それでは蝦夷地北海道で、アイヌが毒矢を使っていたことを語る最初の記事はといえば、平安末期の歌人で、平安末期から鎌倉初期にかけて栄えた六条家流歌道を起こした、左京大夫藤原顕輔(1090〜1155年)作の「あさましや ちしまのえぞの つくるなる どくきのやこそ ひまはもるなれ」という短歌である。これは「夫木和歌抄(藤原長清撰、1310年頃成立)」に収められているもので、この歌はさらに 顕輔の甥で歌人で歌学者の顕昭が、着物の袖中(たもと)に入れて携帯しいつも気軽に接し楽しめる物として、歌の語を講釈した語釈歌集「袖中抄, 1185〜1187年頃」の第20に、語釈とともに採録されている。

 顕昭によるとこの歌の意味は「毒気の矢とは奥の夷(蝦夷、アイヌの義)が鳥の羽の茎(「長管骨」製の鏃)に附子という毒を塗ったもので、よろずのあきまをはかりて(鎧の隙間を見定めて)射る」。附子矢というはこれ(附子を塗った矢)である。「えびすの嶋はおほかればちしまのえぞとは云也は、(えびす「夷、アイヌ」が住んでいる島はたくさんあるので千島といい、そこの住人を蝦夷というのだ)ということである。なお、ここでいう千島とは今の千島列島をさすのではなく、北海道とその付近の島と、さらに千島列島やそれに多分樺太も含めた地域のことである。この記述は、夷(蝦夷、アイヌ)が毒矢に附子「トリカブトの根」を用い、しかもそれで人を射ることを(殺人に使うことを)、和人が明確に記述した多分最初の史料である。

 

15、<スルグは神が化身したものという記述>

採録地は不明だが(但し知里は、空知・幌別でも同じ神話を採録している)バチェラーBatchelor(1927)が採録したトリカブト毒の由来によると、「トリカブト毒は夫婦の神で、男神をkerep-turuseといい、非常な強毒で、一掻きしただけで即死するほどの力があった。他方、女神はkerep-noveといい、毒の作用は穏やかであった。ある時アイヌが男神をつけた矢で鹿を射ったが、その鹿を獲り得なかったために、アイヌが男神を軽蔑し、男神の付いた矢は使用しないし、捧物をしないといったために、男神の付いていた総ての矢が怒り、神の国に帰ってしまい、地上には女神だけとなった。以来、アイヌは女神毒しか利用しえなくなったために、それを塗った矢は時々目標から外れるし、獣が倒れるのに時間がかかるという」のである。

 

16、<スルクの種類>

 アイヌは物を呼称するに当たって、生活に密接で重要な物ほど、その特徴を捕らえて細分していた。

 知里(1976)によると、surkuの分類を幌別(登別)では(1)seta-surku(毒性弱いもの)、(2)yayay-surku(毒性中位のもの)、(3)sino-surku(強毒の附子根)に三大別し、さらに(2)をkema-hure-surku(足の・赤い・附子根)とkema-kunne-surku(足の・黒い・附子根)に分け、(3)を既に述べたkerepnoye(ケレップノエ)とkerepturse(ケレップトレセ)に分けていた。穂別では(1)seta-surku(毒性弱いもの)、(2)ietunaska-surku(効果を速くあげさせる附子根)、(3)ietokoan-surku(先に行って効果を現す附子根)に分けていた。

 

17、<赤いスルク、黒いスルクとは>

赤いスルク、黒いスルクというのは、根を切り割った時に、白色の割面がほどなく赤くなり、さらに時間の経過につれて暗褐色化するものがあって、そのような変色が短時間に進むものほど、強毒を含むとアイヌは信じていた。この赤化はフエノール の酸化によるもので、黒化もその後の化学変化によるものだが、この色変化の度合いが、毒となるアコニチン型アルカロイドの量と相関するか否かは、まだ検証されていない。しかしアイヌは経験的にそのような鑑別法を会得していたことからも、相関性があると思う。

同じ鑑別法はトリカブトの塊根を矢毒としていた、ネパールやブータンでも行われていて、毒効の強い割面が黒いものをネパールではkara-biku,ブータンではzuringiと呼び、毒効が多少弱く割面が黄色のものを、ネパールではparo-biku, ブータンではhoringi、そして弱毒で割面が白いものはネパールでは、seto-biku, ブータンではnirubisi-senとよんだ。

 

18、<アイヌが矢毒に用いたトリカブトの種類>

 アイヌが矢毒に使用したトリカブトは、種の分布と採取地の照合とから、主体はエゾトリカブトA. yesoenseとオクトリカブトA. japonicumの2種である。そして前者はアイヌが、「ヨモギの葉をつけた附子noyahamussurku」と呼び、後者は「ヤチブキの葉をつけた附子puyrussuruk」と呼んでいたものだと思う

 

19、<塊根の採取は晩秋や早春>

 松前廣長著の「松前志、1781年」には、夷人これを晩秋に採る。附子の毒気春夏はその葉にあり、秋冬はその根にありという。これ方俗(松前地方)の説なり。夷人は毒の真偽を試すに、附子の子根を咬んで応無き(毒気の弱い)ものはこれを埋め、応あれば(毒強い物)その汁膏(根の)を製(調合)して射罔(毒薬の意)とす。また自らその製薬を舌上に置いてこれを試す。毒気淡薄なるものもまたこれを埋め、ただその薬気猛烈なるものをもって毒薬の用とす」とある。

アイヌはトリカブトの根をスルク(suruku)と言い、神の化身とみていた。したがって、使はないものも粗末に扱わず、土に返したものであろう。

 同書には上品(強毒)の附子は「毒気鼻に入りて、たちまち瞑眩(苦しんでめまいがする意)して、鼻血を出すを忌み畏るが故なり」ともある。

確かに、トリカブトの毒は根だけではなく、葉・茎・花にも毒があって、どの部分でも、切ったり揉み砕いて臭いを嗅ぐと、ピリットした刺激臭がする。特にアイヌが強毒の塊根を見分ける基準とした割面が直ぐに赤化し、さらにほどなく黒褐色化するトリカブトの塊根を、搗き砕くとその刺激臭は強烈で、時には目がチカチカし涙が出るほどである。

 

20、<採取した根の処置>

 竹内君一の「アイヌ毒箭並動物試験、1894年」には、日高国沙流アイヌグイカナの証言で「土人のいわゆる「ショルクあるいはシュルク」にして「ショルクは辛刺の意、土人普段の談話でこの語の使用を忌み嫌うは、これで猛烈なる箭毒を製するによるという、烏頭即ち附子これなり、土人これをもって矢罔(矢毒の義) となすは晩秋の候この根部を堀取り蓬葉で苴を作り、裡にその根数十個を盛り爐の上に高く懸け一月ばかり乾燥の後、刀で一片を削り取り、舌の上に置きて毒性の強弱を試み、辛味猛烈にして耐え難きもののみを取りて、細挫し石上にて搗砕く」とある。

 

21、<スルクの特産地>

 アイヌのスルクの採集地には、スルクが特産するという意味の地名がつけられていた。「北海道蝦夷語地名解,1891」を著した永田方正(1838−1911)や、蝦夷地を探検した松浦武四郎(1818−1888)、知里真志保らは、そのような地名を採録していて、その合計は23カ所になる。

アイヌがスルクを採集したその特産地は、そのほとんどが沢沿いである。それは沢沿いの比較的陽当たりのよい場所に、目的とするトリカブトが多く生えていたことと、沢は自然の道として、歩き易かったことによろう。

 後志国 積丹郡、shuruk ushi シュルクウシ、附子多き處の義、沼前「ノナマイ」付近をいうのだろうが、現在ではその場所が特定できない。松浦武四郎の地図には「ノナマエ」の直ぐ北に「シユルクシヨ」があり、位置的にこれをさす可能性がつよい。

 

22、<矢毒造りは秘密>

 アイヌはトリカブトの根から矢毒を造ったが、その製法は製作者によって異なり、しかもそれは秘伝であった。蝦夷地(北海道)に来た和人は和人社会には有史以来、矢毒というものを持っていなかったことから、アイヌの矢毒に関心を抱き、その製法をアイヌから聞き出そうとした者もいたが、アイヌは和人にはもちろん、アイヌ社会でも矢毒の製法は秘事で、よほどのことがないかぎり、同族でもその秘密を明かすことはなかった。

 

23、<秘密であることの文献の初出>

矢毒の製法が、アイヌにとって秘事であることを記した最初の文献は、1739年の坂倉源次郎著の「北海随筆」である。それには「毒箭に用いる毒のこと(箭は矢の竹の部分で、毒の着いた矢の意)松前(松前藩の所在地)では知る者なし。商船の者共年々往来して、数十日滞在する故、蝦夷(アイヌの義)と馴染んで心易なれども、毒のことは聞くとも教えず。女、子供を騙しすかして聞こうとしても、言わないのは、蝦夷一同の守りと見えたり。毒を合するに一間(ひとま)に籠もり、数日がかりで調合し」とある。

 松前廣長(1781)の「松前志」には、各家法ありて夷人(アイヌ)のメノコ(女の義)と言えども、その方を知らず」とある。

 幕末の探検家、松浦武四郎(1857)の「丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌」には、渡島國山越内のアイヌ、ノサカ50歳からの話として次の記述がある。「シユルクタウシハツタリ。左のヒラ少し、その上に小川あり、そのヒラ下、急流にして淵(深み)なり、この淵に毒箭(毒矢)に用いる水虫多しとかや。よって号する由。

 その虫のことを聞くに、総じて土人(アイヌ)等は毒のことは、堅く秘して教えざるものしが、このノサカは何たる訳にてかは知らず、毒の練り方をあらまし話ける、水中より大成(大ナル)る石を一つ引き上げて、それを探し見たるに五六分(1.5〜1.8cm)ほどの白き長き虫あり。夷(アイヌ)これをウルウンベwor-un-peと言う由」と、アイヌが矢毒の製法について話したことに、意外感を表明している。

 松浦はこの時のことが余程印象に残ったのか、後にまとめた「東蝦夷日誌」にも、再び「昔は土人らに(アイヌ達)箭毒を聞くに、秘して教えざりしが、今は左なく、「ノサカ」余につまびらかに語りける」と同じことを書いている。松浦は蝦夷地をアイヌの案内で探検し、和人がアイヌの人権を無視し、半ば奴隷的に酷使したり搾取している状態に心を痛めたびたびそれを書きとめており、その心情が案内のアイヌにも伝わり、アイヌに松浦が信用できる味方と理解された結果、秘密を明かしたものであろう。

 

24、<矢毒の調製>

矢毒に用いるトリカブトの部位は根部で、根が肥厚した塊根である「(知里)はときには混ぜものとして新芽や葉も用いたと記す)。茎が生じた根を母根といい(漢方では乾燥した根の形が三角錐で黒く、カラスの頭から嘴の部分の形に似ているので烏頭という)、母根の直ぐ上の数センチの部分は根茎で、根茎から新たに生じた根を子根という(漢方では母についた子の意味で附子という)。

 夏の母根は毒が強いが晩秋の母根は毒が少なく、また冬には母根は枯れてしまう。だから、晩秋にsurkuとして採取する塊根は子根である。

 塊根の毒の強弱を知るのに、アイヌは既述のように割面の変色で判断したり、根の小片を舌にのせて験したという。しかし後者は極めて危険なことで、そのようなことを実際にしたとは私は信じ難いが、昔人は強靱だからそういう試し方をしたのかもしれない。この他、ザトウムシ(俗に足長蜘蛛という)の口に毒を塗って、脚がたちまち取れるものや、指の擦過傷に毒を付けて、その痺れ具合などからも判断した。

 掘り取った塊根は皮を剥かず、そのまま炉の天井に吊して乾燥させた場合が多いようだが、皮を剥いだとする記述もある(バチェラーJ. Batchelor など)。矢毒の製法で、根を生で用いたという記録や、絞った汁を煮詰めたという記述もあるが、多くは乾燥させた後、石の上で唾液や水を加えながら、搗き砕き泥状にした。この根を搗き砕くのに実際にアイヌが使った石臼と搗き石は、後に想像で作られたものはあるが、アイヌが実用した現物は、私が探した限り残念ながら実在しない。

 

25、<混ぜ物>

 アイヌは矢毒の効果を増強するために、なかば呪術的に蜘蛛や、天南星の根茎の黄色の有毒部など、いろいろな物を混入した。知里(1909−1961)は、その著「分類アイヌ語辞典、植物篇、1953年」に、混ぜ物に(1)幌別(登別)では蜘蛛、川のカジカ、沢蟹、天南星の根の有毒部、ヨモギの葉、松脂などの全部、または数種を組み合わせて叩いた。(2)名寄ではフグの油、蜂針、ドクゼリの根、天南星の種子、ハナヒリノキの削り屑、エンレイソウの実、やイチゴなども適当に混ぜた。(3)穂別ではベニバナヒョウタンボクの枝を煮詰めて混ぜると毒の効き目が早いという。他に虫のアメンボウ(pekakarpe,水の上を掃除するものの儀)も叩き込んだ。広野廣道(1955)、アイヌが附子矢毒に添加した昆虫類13種類と蜘蛛類等を総括し、その最後に「今泉アヌカヨ(原典に記載ないが、千歳市生、1861,5,5生〜1932,6,29:71歳で没)の話として、熊猟にはなるべく純粋の附子を用い、普通は熊に遠慮して他の混合物は用いないようにしていたという」含蓄のある言葉を残している。混ぜ物で混ぜる理由が採録されているのは蜘蛛、獣の胆、ハシボソガラスの胆、松脂だけである。名取武光(1980)は、狐その他の陸獣の胆か、ハシボソカラスの胆を少し入れ、練り薬のようにして、銛先の溝に塗りつける。動物の胆は銛を打ち込まれた鯨が浜の方に寄ってくるように呪いのためにいれる」と記している。バチェラーJohn Batchelor は、キツネの胆汁があればそれも少し加えると毒の効力が高まる。キツネは賢い獣ゆえ、迷信的なものだと考証している。。

 

26、<調製したsurkuの効力の検査法>

調製したsurkuの効力は、その微量を舌端に直接または葉を隔てた上に間接的に置いての、舌の痺れ具合や指間の基部にその微量を塗っての刺激、あるいは指間に血が滲まぬほどの擦過傷をつけての、その傷に付けたsurkuの刺激から判断したという。しかし舌端に直接surkuの微量を置いての検査は、その毒の危険度と毒を置いた舌部だけでなく、口腔をも糜爛させる炎症性とからして私は信じ難い。

 

27、<surkuの保存法>

 調製した毒の保存法は「氷らさないようにした(更科源蔵、コタン生物記)」という程度の記述しかない。また矢毒の有効期間は、竹内君一が1894年(明治27)に「アイヌ毒箭並動物試験」で、日高国沙流アイヌ「グイカナ」の話として、箭毒は数年間保存しても毒性は減ずることはない、と述べているのが唯一である。また萱野 茂さんは「古い毒は熊の神が嫌う」と書いている。

 

28、<アイヌがトリカブト毒で猟をした動物>

アイヌがトリカブト毒で猟をした動物は、ヒグマ・シカ・クジラなど比較的体が大きな獲物を対象としていた。世界的に見れば、附子による鯨猟はアイヌだけでなく、アリュシャン列島の沿岸ではアリュウトが、カムチャッカ沿岸域ではカムチャダルが、そしてコジャク島・アフガニック島を含むアラスカ南岸域ではコヤックが行っていた(Heizer,R.F.1938年、Aconite poison whaling in Asia and America )。

 

29、<毒と蜘蛛>

アイヌがsurkuとの関連で蜘蛛を用いる目的には二つあった。一つはsurkuの毒効を験すため、もう一つはsurkuに混ぜて毒効を増強する(別の考えもあった「矢毒にあった人を助ける」)ためであった。アイヌが附子に蜘蛛を混ぜることを最初に記録にとどめたのは、ポルトガル人宣教師カルバーリュCarvalho, D.である。かれは1620年(元和6)に松前を訪れ、その著に「蝦夷人は弓術巧みであり、毒矢を使う。毒はある種の蜘蛛に毒草を混ぜてつくる」と記している。 

 

30、<蜘蛛神は人を救う>

 蜘蛛を附子に加味する理由について関場(1896)は「アイヌが言うには、附子に蜘蛛を加えれば、附子矢で人が傷ついても、中毒することなし故に、仕掛け弓「アマッポ」等には人自ら傷つき易きを以て、概して蜘蛛を加えた附子を用いる」と。アイヌの古老の語るところを聞くに、「諸樹皮の根(意味不明)を挫栽して、これを煮るに、先ず、神明に祈り、次いで挫栽するに、沈黙粛恭して、盤爼の上、声を出さしめず、また家人をして静寂、敢えてその部屋を窺はしめずして、彼のsuruguには神いませり、これをスルクカムイと言う、その神力甚だ猛驚なるを以て、ヤウシュケップカムイ(蜘蛛神)をして、その力を減殺し、以て、人を中毒せしめざらんことを、祈る。これ附子に蜘蛛を加えるの精神なり。吾が子これを秘せよ、と」。要するに、附子矢に人が誤って当たっても死ぬことがないようにとの祈念の呪術である。

 

31、<鏃への毒の付け込み>

アイヌのマタギ(アイヌ語で猟師の義)は、各自それぞれ先祖からの秘伝による方法で、附子からsurkuを造り、そのsurkuを鏃や槍・銛先に付け込んで使用した。その「つけ込み方」については、知里(1976)やバチェラー(1927)や更科(1976)の報告があるが、その方法は決して単純ではない。また、動物の種類や体の大きさで当然必要とする毒の量も変わるはずだが、それについての記録は皆無である。しかし強毒のsurkuは熊や鹿だけでなく鯨も倒せた(名取、アイヌ民族誌1970)。

知里(1976)によると、surkuを鏃や槍・銛先に付け込むに当たってスルクで丸薬を造ったという。名寄のマタギはトリカブトの根surkuを、毒効により六つに分けていたという。しかし、知里のその分類を見ると(3)と(4)は同名だが、実用では(3)と(4)を重ねて用いたということらしい。六区分とは、(1)seta-surku(毒性弱く無効のもの)、(2)itunaskap(毒性弱いが一番速く効果が現れるもの)、(3)(4)imoyrekap(毒性強いが効果が遅く現れるもの)、(5)ayayopikkew(矢毒の中心になるもので、最も毒性が強いが効果が最も遅く現れるもの)、(6)irurekap(毒性が強烈で肉が腐敗するもので、wen-kamui人喰い熊を殺す時だけ使った)である。

 鏃に毒を付け込むには、(2)(3)(4)(5)の四種類のsurkuの各々から別々にそれぞれ丸薬(大きさの記載はない)を作り、その丸薬を鏃の窪みに鏃の先の方から(2)(3)(4)(5)の順に並べて入れる(先の方から順次並べて入れるということが重要)。毒効は(2)(3)(4)(5)の順に効いていくという。知里によると、surkuが獲物を倒すのもトリカブトの神surku-kamuyが獲物を酔わせるからだという。そして酔ってふらふらすることをsur-ur-keといい、トリカブトの根を意味するsur-kuの語源はsur-kur「ふらふらする人」ではないかと考究している。 

 バチェラーBatchelor(1927)は毒を鏃に付け込む際、まず矢先の鏃を松脂に浸し(トドマツの樹皮面が膨らんだ、俗にいう「脂つぼ」の夏の脂は液状で柔らかい)、それから注意深く鏃の窪みに毒を置き、親指で窪みに付け込む。その後さらにそれをもう一度、松脂に浸して完了とする。

 

32、<surkuが効く時間>

関場(1896)は日高国沙流アイヌ「パンタメ」の証言として、「熊はトリカブトだけの毒で2時間以内に死に、毒増強物を加えたsurkuでは1時間以内で死ぬ。矢に当たった当初熊は暴れるが、徐徐に静かになり、ついに気力を失い臥し、口から泡をふいて四肢硬直し死に至る」とある。毒で獲った獲物の肉は毒のついた鏃が刺さった部分を大きく除去すれば他は食べることができた。

 

33、<毒矢と毛皮>

八田(1912)は仕掛け弓による熊の猟法について、「仕掛け弓を敷設したら四日ないし七日おきに巡視する。仕掛けの矢がなければ熊が掛かったのだから、笹や草の倒れ伏している方に静かに注意深く捜索していく。熊が嘔吐した形跡があれば、毒が弱くて熊は斃れずに逃げたのだ。また五六間(約10m)歩いたきりで斃れていたら毒が強過ぎたのである。毒が強過ぎると毛皮にしてから毛が抜けるし、肉も腐敗が速い。アイヌはそれを嫌って矢が刺さった部分を慌てて欠きとる。毛皮に丸く継ぎが当ててある毛皮は仕掛け弓で獲った皮だといって人は喜ばない」と。

  松浦武四郎(1857)は山越郡八雲のアイヌのノサカ50歳からの聞き取りで「附子に煙草の脂、蜘蛛、水中の虫kurunheクルンヘを練り合わせて筒に入れ、腐らせて用いると、肉に毒が廻ってややもすれば食し者に当たる故、今は附子だけにてsurkuを製す。されば毒の廻り遅いが、肉を捨てる所少しですむいう」と書いている。

 

34、<熊附子松脂の神>

 久保寺逸彦博士(1902−1971)が、昭和7年(1932)9月に日高国沙流郡新平賀村(現門別町)で「平賀エテノア(原著には生没年の記載がないが、1880年1月3日生−1960年1月25日没である)」から採録した643行(1行は1〜5語である)から成る「Nupuri-kor kamui isoitak山岳を領く神(熊)の自叙」神謡である(アイヌ叙事詩 神謡・聖伝の研究、1977)。それから「熊神と火の老婆神から使わされた附子神、松脂神との関わり」の部分を引用ご紹介する。和語は理解のため多少原著を言い換えてある。

 そもそもアイヌは「熊猟、すなわち熊神を迎えることができる者は徳のある者だけで、アイヌが附子を付けた矢や槍で熊を射ると、熊神は徳があるアイヌか否か即断し、徳のあるアイヌと分かれば神自らその矢や槍を受け、surkuスルクに酔いながら、我が身とアイヌのいろいろな事象を夢見ながら、アイヌに贈り物(毛皮や肉など)渡すという。アイヌはその贈り物を受け取った後、その場に応じて、熊神に感謝し神の更なる地上への再来を願い、神に贈り物を与えて天上の神の国(kamui moshiri)に戻っていただく儀礼を行った。そうすることで、神は神として天上で再生し、神国でより豊かな生活ができると考えた。この儀礼の根底にはアイヌと熊神との相互扶助の思想がある。次の神謡にはそれが端的に表現されている。獣がsurkuで 倒れるまでの所作は、獣の神とsurkuの神双方の所作と考えた。

 

35、<神謡>

 行数の数字は原典での行数を示し、ローマ字はアイヌ語の発音を表記したもの。括弧の文言は門崎の追記である。188行目から) ni sempir wa 立ち樹の陰から、ku kitai 弓の端が、otuk itara ちらりと見ゆ、yairenka ne我しめたりとばかり、kopaksam orkeそれを目がけて、a-koikamatu 走りかかれば、a-tumam kashita我が身体に、pirka pon ai 佳き小さき矢、196行目) kor-kosanu ブスッと突き刺さり、(中略) 、226行目) rapokkiketa その時、Surku-kamui 附子の神、chi-sa-ekatta 我が前に現れ、Kamui huchi 火の老婆神の、i-utek hawe 使者として(附子神が)言うこと、ene okahi 次のごとし、Pase-kamui 重き大神よ(熊の神を指す)、ratchitara 心のどかに、234行目)i-ko-shinewe yakne 我がもとに遊びたまえ、(中略) 255行目から)ne rapokke その時、Unkotuk kamui (火の老婆神の使いとして)松脂の神、chi-sa-ekatta 立ち現れ、Surku kamui 附子の神、koeturenno と共に、poki-shir ka-ta 我が下肢に、santek ka ta 我が手先に、io-chin-konoye 我が足にからみつき、i-teke-kishma 我が手をとらえて自由を奪う、pito shinne 我は神の如く、kamui shinne 神の如く、rut-kosanu an ドッと前へ崩れ伏す、ene-ash kunipいかなる訳か、aattaraye 意識がかすかとなる、mokor-an aine ウツラウツラ眠りて、shik-maka-an ふと目覚めると、ene okahi 次のごとし、nitek ka-ta 一本の樹の枝の上に、tek rachichi 手をだらりと下げ、kema rachichi 脚をぶらりと下げて、a-ki wa an -an 我有りたり、or sama そのそばに、a-ko yaishikarun 我蘇生したるなり、i-chorpokke ta 我が下を見ると、tapne an kunip かくのごとし、shi-onne shiyuk大きな老熊が、pito shinne 神々しく、kamui shinne 神々しい姿で、rut-kosanu 身を横たえて、284行目)oka ruwe-ne いた。 以下略。

 

36、<矢毒は開拓使が禁止した>

アイヌはトリカブトを原料とした矢毒を、狩猟だけではなく、戦争にも使ったが、トリカブトを矢毒以外に、利用した確かな記録はない。それではアイヌはいつ頃まで、トリカブトを矢毒に用いていたのであろうか。北海道開発のために明治2年(1869)に設置された開拓使は、明治政府の意を受けアイヌという固有民族とその文化を無視した和人同化策をとった。明治九年(1876)九月二十四日(甲第二十六号)に、本庁布達でアマッポを全道で禁止した。以来アイヌの矢毒文化は、衰退の道を歩むことになった。明治14年(1881)に開拓使は函館管内に「仕掛け弓を設け鳥獣を捕る者があるが、人に危害あるので、その設置を禁ずる。もし鳥獣などの害があって、それを設置する者はその場所に目印を立てるか、縄を張って人に分かるようにせよ」との布令を出しており、当時はまだトリカブトの矢毒を矢に塗りこんだ仕掛け弓が、まだ盛んであったことが分かる。

 

37、<矢毒使用の最後の記述>

矢毒の仕掛け弓が使われていたことを語る最後の記録は、砂沢クラ(1897−1990)さんの記述である。明治41年(1908)10月の思い出に「秋になって父また士別へ猟に行く・・・・いとこ姉泣きながら私の手を取り、あなたの父熊に殺された。といって泣き、(父が)ニサマンという所にamappo(仕掛け弓)かけているの分かっているから(兄が)行ったら(父の)鉄砲も曲がって土に刺さっていた。父が(熊に襲われて)顔めちゃめちゃにされて・・・・」。 これはクラさんの父が熊を獲る仕掛け弓を見に行って、熊に逆襲され殺された時の話である。この頃のアイヌは表向きは鉄砲を主猟具に持ち歩くとともに、山奥では仕掛け弓も併用していたのである。もちろん矢毒はsurkuであった。

 しかし矢毒による猟法も、それに固執する古老達が故人となるにつれて、だんだん実用されなくなった。大正15年(1926)6月生まれの平取町の萱野茂さんは「昭和7年(1932)頃、父が天塩の遠別に熊獲りに行き持ち帰った荷物の中から何十本かの仕掛け弓の引き金が出てきたのを見た記憶がある。・・・アイヌ達はずっと山奥でこっそりと使っていたのです(アイヌの民具、1978)と書いておられる。多分この頃がアイヌの矢毒使用の最後だろうと私は思う。          

 

38、<人が毒矢に当たったら>

 関場不二彦著の「あいぬ医事談、1896年(明治29)」の「アイヌが識れる外科」の項に、「アイヌは毒箭で猛熊を倒す際、自ら毒箭で負傷し煩悶することあり。この時多くのアイヌに於いては、直ちに刀で毒が触れ毒の侵入したる部を摘截すること稀ではない。また時には創面(傷口)に口を当て毒を吸い出した後、傷口を丁寧に洗滌し、傷口に鹿角の粉末を貼附し包帯することあり、勇ましなりというべし」とある。

 

39、<実例>

 人が誤って附子の毒矢に当たったらどうであろうか。明治30年(1897)生まれの砂沢クラ(1897−1990)さんが6歳の時に父母兄弟縁者ら12人で山猟に行った時の回想を引用しよう(私の一代の思い出、1983)。「若いおじさん(クラさんの父の末弟で21歳)熊獲りの仕掛け(弓)にかかった。・・・・・かわいそうにおじさん苦しんで身のやりばないようにころがっていた。それから毎日毎日矢の傷草の根でなおしたが、だんだん悪くなって、少し良くてもまた悪くなり、ある日からだ全体はれて、その日いききれた。・・・・・山奥なので何もなく旭川の家まで帰ると死人くさるから、・・・・・和人からゴザ一枚買って、・・・死人ゴザ一枚にくるんで・・・・山の上におじさん達かついで行って、木の根元掘って死人埋めて泣きながら帰ってきた。・・・」とある。治療に用いた草が何であったか、何日後に亡くなられたのか。クラさんも故人となり確かめる術もない。

 

40、< アイヌの狩猟武具>

 アイヌは狩猟や戦争に、いろいろな猟具や武具を用いた。猟具には手弓・槍・仕掛け弓・銛・オジロワシやオオワシの脚を離れた所から引っ掛けて捕まえる「コンケップ、鷲鈎」、撲殺棒、それにそれぞれの獲物の生態を熟知してあみ出したいろいろな罠などである。  アイヌがトリカブト毒を用いた猟具武具は、弓矢・槍・銛であった。弓には手持ち弓と仕掛け弓とがあった。アイヌの弓矢に関する最初の記録は、おそらく1710年(宝永7)に幕府巡検使として、松前に来た軍学者北条新左衛門に同行した松宮観山が、一行の蝦夷通事(通訳)として加わったと見られる「勘右衛門」の談話を筆記した「蝦夷談筆記」であろう。それには「男所持の道具、半弓(短い弓)並矢(並の矢)、矢筒、スズ(打ち棍棒)、エグシ(エムシまたはエモシで短刀をいう)、シリタンネ(長刀)等也。矢は短く二羽矢(矢羽が二枚の矢、鷲羽一枚を羽軸で二つ割りして矢軸を挟んでつけた矢)也。鏃は木にて、このほう(和人)の鉄鏃と同じ形で両足あり。中略。半弓(の材は)オンコの木にて候」とある。

 これより後の文献で、弓や矢の寸法やその製法まで記述したものに、1720年の新井白石の「蝦夷志」、1739年の坂倉源次郎の「北海随筆」、1781年の松前廣長の「松前志」、1788年の古川古松軒の「東遊雑記」などがある。

 これらを総括すると、弓は強力な瞬間的復元力を必要とするために、経験的にそれに適する材としてイチイ(時にはハシドイ「犬飼、名取1970」、エンジュ「八田三郎、熊1912」も使われたらしい)など粘りの強い木を用いた。弓材の木を一度しばらく水に浸けた後、火に懸けて乾かしてから、弓を作るので、その後水に濡れても狂はないという(東遊雑記)。

 松前志」には、「夷人の木弓はアイヌ語で「クウ」という。木弓の長さは大抵3尺4,5寸で、弦の中央と上下の違藤、この三箇所に樺皮を巻く。弓材はオンコで、この真っ直ぐな木心材を取り、久しく枯らし火にあぶり作ると、暑天陰雨でも狂い弛むことなし。この木堅く朽ち難く、木理細やかにして直なり。木色代赭石(赤色の石、赤鉄鉱)の如し」とある。手持ち弓の長さは3尺3〜5寸(約1m,松前志)から3尺7〜8寸(東遊雑記)、で仕掛け弓より少し長く、1.2m内外であった。弓は丸棒でその太さは中央部が太く円周が2寸6分(直径2.7cm)、両端が1寸4分(直径1.5cm)ほどである「蝦夷志」。弦は麻糸「松前志」ツルウメモドキの皮の繊維やイラクサの繊維の撚糸「アイヌの民具、萱野茂1978」を用いた。

 矢はクマイザサの茎などを用い、長さ50〜70cmで、手弓の矢には矢羽をつけたが、仕掛け弓の矢にはつけなかった。鏃はクマイザサの太い茎を割った平板の先を鋭く尖らせ、中央の両面または片面に矢毒をつける窪みをつけたものや、骨や鉄製の同様の鏃を用いた。槍は全長約1.5-2mで、穂先は鹿の肢骨を鋭く尖らせ、中央に矢毒をつけ込む溝をつけたものである。捕鯨用の銛は離頭銛で、銛先は長さ10cm内外である。銛先は長さ3−4mの木の投てき柄をつけ、銛先は舳先と綱で結んでいた。

 アイヌは獣をアイヌ語でku弓-ari置く、またはama置く-ku弓(俗にアマッポともいう)などと呼称する仕掛け弓でも獲った。

 獣にはそれぞれ好む環境というものがあって、そういう場を好んで棲場とするし、通路も好んで通る場所があって、そういう通路は獣道となる。仕掛け弓はそういう獣道に弓を仕掛けて獲る猟具である。通路を横切って細くて目につき難い丈夫な撚糸を丁度獣の胸の高さに張り、端を仕掛け弓の引き金に結び、他端を木に固定し、この張り糸に獣が掛かると自動的に矢が発射され獣の胸板を射る仕掛けである。毒をつけ込んだ鏃は雨水で毒が流失するのを防ぐ筒の中に収まるように工夫してある。

 この仕掛けによる熊や鹿の猟法はアイヌにとって重要なもので、特に山野を跋渉している熊をアイヌが捕獲しえたのはこの仕掛け弓によるところが非常に大きい。したがって、その猟場は代々伝承されていた。 毒矢で獲った熊や鹿は鏃が刺さった部分の肉を、大人の両手いっぱいぐらいかき取り捨てれば、ほかの部分は食べることができたという。しかし附子で獲った肉を「生で食べた」という記述はない。常識的に見て、生で食べれば当然中毒を起こすこともあろうから、煮炊きして食べたものであろう。毒矢で獲った獲物の肉を食べて、時に中毒を起こすこともあったというが(松浦武四郎1857)、それはsurkuの量が多かったか、煮炊きする時間が短かったために、中毒物質のアコニチン型アルカロイドの加水分解が不十分で、それが相当量残っていた場合であろう。

  

41、<トリカブトによる中毒症状>

 トリカブトによる中毒症状の原因物質は、aconitineを主体としたアコニチン型アルカロイドで、生体への作用部位は、神経に対してであり、中毒の原因は、神経の正常な刺激伝導を、アコニチン型アルカロイドが阻害するためである。これによる最も顕著な中毒症状は、時々呼気性呼吸停止を伴う、「しゃくり」様開口運動による、頭部の痙攣様運動で、これをトリカブト中毒による「あ症状」という。この「あ症状」という呼称は、トリカブトを薬理学的観点から広く研究した東京医大の黒田朝太郎博士が、1951年に発表した術語で、博士によるとこの症状は、嘔吐運動、呼吸障害、心臓障害が同時に混合した中毒症状だという。

 中毒症状の発症は、いくつかの症状が同時に発現するいわゆる「グル−プ症状(混合症状)」で、しかもその症状は時間の推移にしたがって、順序よく初期、中期、末期の順に見られ、これらの症状の順位が、逆転することはないという。まず初期症状は酩酊状態、のぼせ、顔面の紅潮、めまい、舌や口のまわりのしびれ感、さらに頭の項部(後頸部)・上肢部さらには胸部から腹部へかけたしびれ感、体、特に心窩部(みぞおち)の灼熱感、心悸亢進(ドキドキすること)などが起こり、さらに悪化し中期に進むと、流涎(よだれ)、舌の強直(引きつり)、言語不明朗(ろれつがまわらなくなる)、さむけ、冷やせ、顔面蒼白、悪心(気分が悪い)、嘔吐(はくこと)、口の渇き、胃痛、腹痛、手足の倦怠と無力による起立不能、下痢などが現れる。そして末期になると、体温低下、血圧低下、呼吸困難、視力障害、意識混濁、脈拍不整・微弱・緩徐、呼吸緩慢・麻痺などを起こし死にいたる。

 トリカブトの「減毒処理」していない塊根は、摂氏100度内外で1時間以上煮沸しないと、トリカブトの毒成分である「アコニチン型アルカロイド」を、健康人が中毒を起こさない状態まで減毒しえないという。特に春の山菜時季のトリカブトの茎や葉には、毒となるアコニチン型アルカロイドが多く含有しているから要注意である。山菜採りでは怪しいものは採らないことと、そして食べない勇気が大事である。


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