北海道のヒグマの実像

熊類とは、その進化史、そして、熊類と共存するには

(2013 年 11 月、 UHB 大学での講演 )

 本日は、ここにあります題で、熊に付いて、間違った見解を公表している研究者への批判も含めて、熊について包括的にお話し致します。

 

[1]  熊類の分布を世界的に見ますと 、現在熊類は北半球の北極圏から赤道にかけて広く 7 種類生息しています。その7種とは如何なる熊かと言いますと、それを北の方から言えば、ユーラシア大陸と北米の北極圏には北極熊が住み、その南側に広く羆が棲んでいます(羆は北海道にも居ます)。そして、その更に南側のアジア大陸には月輪熊が(月輪熊は日本の本州と四国にも居ます)、そして北米の同じ緯度にはアメリカ黒熊がいます。さらに、インドのデカン高原にはナマケ熊が、マレー半島にはマレー熊がいます。さらに南米の赤道地帯にはメガネ熊が住んで居ます。ここで、注目すべき事は、赤道から離れた北の方に生息している種ほど、時代的に新しい時代に出現した種で、身体の大きさも大型化しているという相関性があります。その原因は、熊類の先祖である原種が熱帯で生まれ、種を分化させつつ、寒い北方へ順次分布を拡大していったからです。

[2]  熊類とは、どう言う動物を言うのか 、共通した特徴を、身体の作りについて言いますと、

 先ず、手足の指が 5 本で、手足ともオヤユビが、最も短かい。そして、歩くとき、手足の裏の全面を、着地して歩ける。手足とも、内則気味(内股気味)に、動かす。

 尾が、短い。長いものでも 10cm 以下です。

また、雄の penis には、陰茎骨と言う骨が陰茎の全長にわたり入っている。さらに、歯が 40 本ないし 42 本あって、雑食に適した、歯の形、歯並びになっています。また、身体付きは静止状態やゆっくり歩いて居る時は鈍重に見えますが、全身をひとたび活発に動かすと、全身に敏捷さが、わき出ているのを、感じさせる獣です。

[3] また、生態的な共通点を上げますと 。(生態というのは、生活状態の事で、漢字で4文字、生活状態と書き、その両端の2文字を合体させて作った術語ですが)、妊娠した牝は、閉鎖空間(土穴・張り根下・雪穴など)に入り、子を産み授乳し、子が歩けるようになって、穴から出てくる。そして、子を満 1 歳過ぎないし満2歳過ぎまで、連れ歩き養育する。北極熊の場合は、餌不足で授乳量が少ない場合満 3 歳過ぎまで連れ歩き養育します。

また、熊類は、孤独性の強い動物で、複数頭数が行動を共にする場合は、次の3つの場合に限られて居ます。それは、発情した雄と雌が、短期間行動を共にするのと、子を養育している母グマが、子を自立させるまで、連れ歩くのと、それから、母から、自立した兄弟熊が、短期間行動を、共にする以外、常に、単独行動者です。

また、食物が雑食性であることも、特徴です。北極熊も、夏には、ツンドラの灌木林に入って、木の実や草を食べますから、基本的に雑食です。

さらに、熊類が日常的に、使用している場所は、地理的環境(地理的環境とは、地形水理「これは河川湖沼のこと」植生「植生とは、植物の種類とその生え方のことですが」)それから見て、地域として、自然度が最も高い地域を、棲み場としており、それ故、熊は、自然の元締め的生き物である、と言えます。北海道でも、かって、山で山林作業等をしていた人、この人達を「山子」言いましたが、この人達や明治から大正、更に昭和の 20 年代までの開拓民は、羆を「山親父」と言ったのも、そう言う理由も含まれています。

 

[4]  日本に居るこれらの動物を、日本語で「クマ」とか「ヒグマ」と発音 しますが、その発音の由来は何かと言いますと、今から 389 年前の(寛永元年に)、日本語の発音の由来について、多田義俊が書いた「和語日本声母伝」によれば、「暗くて黒い物の隅をクマと言うから、黒い獣の意味で熊と言うようになった」と講釈しており、私も案外そんな理由だろうと考えています。日本では、本州以南にいる熊を、多くの場合「月輪熊」と言いますが、その理由は、この熊の多くの個体に、首下から胸の上部にかけて、白い毛の斑紋があり、その形が三日月に似ているからです。しかし、1割程の個体は、この白毛の斑紋が全く無く、全身黒毛です(但し、顔が幾分褐色毛のもいます)。

 

[ 5]  また、羆と言う発音の起源は 、西暦 100 年に、中国の許慎(キョシン)が編纂した「説文解字」と言う、漢字の由来などについて書いた、世界最古の字書に、羆と言う漢字は、罷免の「罷」と、「熊」の字との合体字で、これから能力の能を省いた字であると書かれており、省く前の 2 字を文字通り発音すると、ヒクマとなり、このヒクマの「クがグ」に濁り、羆ヒグマと発音するようになったのであろうと、要するに、説文解字の解説が羆の発音になったと言うことです。

 

[6]  次に、『クマ類の起源』についてお話しします

 クマ類の先祖探しは化石によって行います。具体的には、現存する 7 種のクマ類に共通した特徴で、しかも熊類以外の動物には見られない特徴を備えた化石骨や歯を探し出して、その中で、最も古い年代の地層から産出した化石種を、クマ類の祖先と決めるのです。このようにして調査した結果、地球上に最初のクマが出現したのは、今から約二千万年前で、このクマの化石は、現在で言えば、ドイツのエルム地方などから出土していて、この化石を研究したドイツの古生物学者シュテリン氏によって 1917 年(今から 98 年前)に「エルムの先祖熊」と言う意味の学名 Ursavus elmensis が付されています。この熊は、化石骨の比較研究からイヌ類と共通の先祖から進化した事が解っています。犬も熊も走ると追いかけて来ますが、これは共通の先祖から進化してきたことを示す例です。このクマは化石の形態から、身体の大きさは体長 ( 鼻先から尾の付け根までの直線距離、の事ですが ) が大きなもので 80cm ぐらいであったろう、と考えられています。

[7]  当時の陸地や海の形や気候も、現在とは大きく異なっていて 、一緒に見つかった動・植物の化石から、現在のドイツやフランスに相当する一体の気候は、亜熱帯で、シュロやヤシの木が茂り、沼や河には、ワニが棲んでいたことが分かっています。このエルムの熊も骨と歯の形から、木に登り、時には遊泳などしながら、雑食性の生活をしていたようです。

[8]  以来クマ類は今日まで 2,000 万年という悠久の時の流れの中で その時代その土地の環境に適応するために進化して来ました。そしてこの間に色々な種類のクマが出現しては絶滅していった訳です。

 

[ 9] 次にヒグマの出現についてお話しします

 今から 250 万年程前からユーラシア大陸(これはヨーロッパ大陸とアジア大陸を合わせた呼称ですが)には、現在の羆よりも、少し小型のエトルスカスグマ Ursus etruscus が広く棲息し、そして、今から 90 万年ないし 80 万年前の氷河期の最寒冷期に、ウラル山脈(ヨーロッパとアジアの境界にある山脈)ぞいにスカンディナビア地方から大きく張り出した氷床(氷の塊、大氷河)によって、このクマはヨーロッパ個体群とアジア個体群に完全に分離されてしまいました。なお、氷河期については、後ほどお話しします。そして、その後、ヨーロッパ個体群はホラアナグマと言う「自然に出来た洞窟で越冬を好むに、そして、アジア個体群はヒグマに進化したと考えられています。羆は自ら掘った土穴で越冬すると言う特徴があります。いずれにしても、羆はアジア大陸でエトルスカス熊から進化出現したもので、日本で進化出現したものでは無いと言うことです。なお、月輪熊もやはり、アジア大陸でミヌタス熊から 250 万年程前に進化出現しました。 

[10]  ヒグマの最古の化石は、中国の北京の西南約 40km に ある、あの北京原人が発見された、周口店の 50 万年前の地層 ( 最近は 70 万年前と言われてますが ) 、そこから出土したものです。そして、約 25 万年前の間氷期の始まりとともに気候が温暖化し、ウラル山脈ぞいに張り出でいた氷床が、北極の方へ後退するに従い、それまで分布が、アジア大陸にのみに限られていた羆が、分布をヨーロッパに展げ、以来、一万年程前に、ホラアナグマが絶滅するまで、ヨーロッパでは、羆とホラアナグマが、共棲していた、と言うことです。

[11]  一方、気候のさらなる温暖化に伴い 、ウラル山脈の氷床の後退(氷が消えることを言います)と、時を同じくして、シベリア北東部の氷床も、北極の方に後退しはじめ、羆はその氷床を追うように、氷床沿いにシベリア北東部から、ベーリング海の海氷を歩いて北米のアラスカ中南部へも、分布を拡大し、さらに、北米大陸の東部や南部のメキシコ迄、分布を拡大していった、と言うことです。

[12] 次に、日本の熊の由来について 、お話しします。

 

 既にお話したとおり、月輪熊も羆も、アジア大陸で、その祖先型 から進化しました。日本で進化したものではないのです。

それでは 、大陸から、日本へ何時・どのようにして分布を広げて、日本に棲み着いたかといいますと、氷河時代に移住してきたものです。氷河時代の年代等は、研究の進展で変わり得ることを前提に述べますと、

 

日本に羆や月輪熊が移住して来た、と考えられる氷河時代と言うのは、過去に4回あったと言われています。氷河時代と言うのは、原因は未だ、明確ではありませんが、大気中に火山灰が浮遊等して、太陽光が遮られる等して全地球的規模で、数万年単位で、地球全体の気候が寒冷化した時代を言います。この間、海水が蒸発し、これが雪の原料となり、陸地や氷海に降り積もったものが、低温のため融解せずに、どんどん蓄積した結果、海水が減少し、海面が低下して、氷河期にはアジア大陸と日本列島の総て、またはアジア大陸と日本列島の一部が、陸続きになった、と言う訳です。これは、世界の他の地域についても言えることです。

[13]  アジア大陸と日本列島間には、5つの海峡 (即ち、朝鮮と対島間の朝鮮海峡・対島と九州間の対馬海峡・本州と北海道間の津軽海峡・北海道とサハリン間の宗谷海峡・サハリンと沿海州間の間宮海峡)がありますが、 4 回の氷河期のうち、最後の氷河期を除く、前3回の氷河期、これは今から、 47 万年前から 13 万年前の間に、あったのですが、このときは、年平均気温が現在と比較して、日本の場合、6〜7℃低かったと考えられており、海水面は、現在と比較して約 140m 低下し、日本列島はアジア大陸と完全に、陸続きになっていた、と言うのです。これはどう言うことかと言いますと、各海峡の両側の岸辺から、最も浅い所を、順次辿った場合の、最も深い場所の海の深さが、いずれの海峡も、 140m 以下で在ると言う事です。ですから、海水面が現在より 140m 低下しますと、日本列島はアジア大陸と、完全に、陸続きになる訳です。年平均気温が 6 〜 7 ℃低下すると言う事は、現在の東京の年平均気温が( 14.7 ℃)で、現在の札幌の年平均気温が 7.6 ℃ですから、単純に言えば当時の東京の気温は、現在の札幌並の気温であったと言うことです。

 この時に、アジア大陸から朝鮮半島を通って、九州・本州に月輪熊と羆が移住してきた訳です。九州・本州に両種の熊が棲んで居たことは山口県や栃木県や青森県の石灰岩の採石場から、両種の化石が見つかっていますので、間違いありません。

 

[14]  それでは、本州以南の羆はその後どうしたのか 。と言うことですが、羆は元来、冷涼な気候を好む体質であることから、氷河期後の、温暖化した気候に、適応しきれず、絶滅した、と私は考えています。北海道からは、この時代の熊類の化石は見つかっていません。北海道で見つかっている熊の骨や歯は、古い物でも 1 万年ぐらい前の化石化していないもので、しかも総て羆で、月輪熊の骨や歯は人が持ち込んだ物以外見つかっていません。

 

 ですから、月輪熊は、本州から津軽の陸橋を通って一時的に少数が北海道に移住した可能性はありますが、安定した状態で、月輪熊が北海道に自然分布していたことは、無かった、と言うことです。そして北海道に羆が移住してきたのは、本州よりも新しい時代で、それは今から 7 万年前〜 1.5 万年前の 5.5 万年間続いた最後の氷河期で、津軽海峡が海となり、日本列島のうち、北海道だけが、サハリンを介してアジア大陸の沿海州と陸続きになっていた時に、渡来してきたと言うことです。

 

[15]  次に、北海道の羆の実態についてお話します

北海道は面積が日本全土の 20% を占め、九州の約2倍あります。今から 150 年前(これは明治になる5年前ですが)、当時は、人が住む集落地以外はほぼ全域が森林と灌木が生える湿地帯で、その全域が熊の生息地(熊が長期に続けて使っている場所)ないし出没地(熊が時々使う場所の事)で、生息数は 4,500 頭ないし 5,500 であったと、私はみています。そして、 150 年後の現在はどうかと言いますと、現在全道の土地利用区分を見ますと、全道面積の 71.5% が森林地帯で、宅地農牧地など、人の日常的生活地は 28.5% です。現在の羆の生息域は、全道面積の約 50 %で、森林地帯と森林に囲まれた山岳地帯が生息地です。生息数は私の推算では、 1900 頭〜 2300 頭で、この内毎年年間 300 〜 600 頭が殺されており、この数は 40,50 年前と変わりません。現状の熊の殺し方は、檻罠に熊の好物の色々な餌を入れ、熊をおびき入れ、被害を予防すると言う理由で、罪のない多くの熊を銃殺しているのが実態です。

 

[16] 「北海道の代表的な自然を、世界の民の子々孫々の為に残すとして 、世界自然遺産地に指定した知床」でも一昨年まで毎年 20 数頭、そして昨年は 67 頭もの羆が観光客に近づくとか、人家から見える所に出て来て危険であるとして、殺されました。ところが、朝日新聞今年の 9/2 付に、「知床のヒグマ出没激減」 ) と言う記事がのり、 ------- 「今年の熊の目撃件数、昨年の 3 分の 1 。熊を管理している知床財団では「あまりにも極端」でその原因が分からないと首をかしげている」と言う内容。昨年、例年の3倍の 67 頭もの熊を殺しておいて、なんと空々しい事かと私は言いたい。皆さんはこの事実を、どうお思いになりますか。

[17]  また知床では熊の調査と称し、重さ 500gr もの発信器を熊の首につけ 、荷札ほどの大きさのプラスチック札を熊の両耳に穴をあけてつけて、調査しており、動物虐待も甚だしいと言いたい。そう言うことをしている北大関係者に、己の首に同じ物を付け、何日も過ごしてみろと言いたい。これは欧米の猿まねで、日本では不要な調査です。その理由は、 35 年も前から同じ調査を北大の連中は続けているが、この調査から、雄が雌より行動範囲が広いとか、どこから何処まで何q移動していたとか、得意げに新聞に公表しているが、これによって、人身事故や経済的被害を減らす手はずが見い出せたとか、駆除する熊の数を減らす手立てを見出したとかいうような、人と熊の両方に寄与するような話は全くない。ただ熊を苦しめ、連中が自己満足の為に行っている調査であるという事実、皆さんに知って戴きたい。首輪や耳札を付けられている熊の目を見ると、その目は,餌で人間に騙され、うかつに罠に入り、麻酔かけられ、年齢を調べるために歯を一本抜かれ、採血され、首に発信器を着けられた己の不徳を悔やみ、悲しんでいるまなざしが伝わって来ます。

 

[18] 北海道の羆の生態についてお話します

羆は 1 年を 1 区とした生活型の獣で、その 1 年は穴に籠もる越冬期と山野を跛渉して過ごす活動期とからなっています。羆の越冬穴は山の斜面に横穴状に羆自ら掘って造ったもので、自然に出来た穴は一時的に使うことはあっても、一冬続けて使うことはありません。穴に入る時期は、早くて 11 月 20 日過ぎ、遅くても冬至頃にはすべての羆が穴に入り、冬ごもりを始めます。穴には育児中の母子以外、同じ穴で過ごすことはありません。冬ごもり中は、吹き込む雪や敷き藁を舐り喰う程度で絶食状態で過ごします。それでも、身体に充分な養分を蓄えていますから、ひもじくは無く、要するに、羆にとっての冬ごもりは、悠々自適の休息期なのです。そして、翌年の 3 月 20 日前後に早い羆は穴から出て、山野を跋渉し始めます。

[19] 妊娠した雌は冬ごもり中の、 1 月から 2 月中旬にかけて子を 1 頭から 3 頭産みます。新生児は、鼻先から尾の付け根までの長さはおよそ 25cm から 35cm 、体重は 300g から 600g です。新生児を連れた母熊は 4 月下旬から 5 月の第1週に越冬していた穴から子と共に出てきます。子が 1 頭の場合は子が満1歳を過ぎた5月〜8月に自立させます。また、子が 2 〜 3 頭の場合は、子1頭当たりの授乳量が減るために子が満 2 歳過ぎるまで連れ歩き養育し、その年の5月〜8月の間に自立させます。ただし、野生動物研究者である稗田一俊さんによると、知床では、高栄養の鮭鱒を豊富に食べるために、子が 2 頭の場合でも、子が満 1 歳過ぎた5月〜8月に自立させと言うことです。冬籠もり穴では、熊は糞尿をしないと、北大の獣医学部の坪田教授は幾度も新聞などに書いていますが、そんなことはありません。第一、新生児を養育中の母熊は、子熊の成長を促すために、子の糞尿を舐り取り、それを穴の端に排泄します。彼は複数の 越冬穴を見ていないからそう言う事を言う訳です。

 

[20] <越冬穴から出た直後の羆ついてですが、>

穴出後の羆は、日向の雪溶けた地所に行き、ザゼンソウ・フキノトウ・イラクサなどの青草や、前年のドングリやクルミがある場所を記憶していて、そこに行きそれらを食べます。勿論鳥獣や魚類が手に入ればそれらも食べます。これについても、坪田教授は、今年の4月 18 日の道新に、穴から出た熊は胃腸が不活発で、柔らかい草や新芽を好むと、新聞にコメントしていましたが、 穴から出て間もない熊もドングリやクルミ等堅いものも大いに食べますから、それは間違いで、これも熊の生態をよく識らない言葉です。

 

[21] <発情期>

発情期は 5 月下旬から 7 月上旬で、雄はこの間だけ精子が多量に生産され、雌もこの間だけ排卵する。発情した羆は発情期に 1 〜 2 週間番いで行動し、発情が終了すると、もはや一緒に行動することはない。したがって、出産と子の養育はもっぱら母獣が単独で行う。熊の年齢は歯のセメント層に樹木に見られるような年輪が毎年出来ますので、それを算えることで分かります。発情の最若年齢は 3 歳ですが、多くは 4 〜 5 歳。そして、雌雄とも 30 歳近くまで発情します。私の友人の小田島護君が、大雪山で観察していたヒグマのK子は、 30 歳で最後の子1頭を出産し、翌年 31 歳でその子を自立させ、その年の晩秋K子が 14 年間毎年 7 月〜 10 月に生活していた高原沼地域で 31 歳 ( 年輪数から ) で天寿を終えました。北海道での、野生熊の最高齢は 1980 年に幌延町で獲った雌の 34 歳です。

[22]  北海道での羆の 身体の大きさですが 、雄の成獣の体長で、最大例は体長 2.4m( 立ち上がると目の高さは3mほどになります)、体重 400kg です。雌の場合は最大で体長 1.9m 、 ( 立ち上がると目の高さは 2.5m ほどになります)体重 160kg です。食物は雑食性で、私の調査では、草類 70 数種類、木の実 40 数種類で、他に色々な動物類を食べます。虫類は以外に少なく、蟻類・蜂類・黄金虫の幼虫しか食べません。時に鹿を襲ったり、羆同士闘争し共食いすることもあります。主要な休息地や越冬地は縄張りとして、他の個体の侵入を嫌いますが、他の行動圏は互いに遭遇しないように使用します。先に熊が居る場所に、その後から来た熊は、時には先に来ている熊の数b近くまで徐々に近づき、許可を得るような素振りをして、争いを避け共用します。北海道でこのような熊の 光景が見られるのは、大雪山の高原沼の西斜面と、知床のルシャ川とテッパンベツ川一帯でしか見られません。また、3〜4時間に熊が1頭ないし母子1組が見られる場所は、北海道広と言えども、知床のルシャ川とテッパンベツ川一帯しかありません。

[23]  さて、羆は水芭蕉を特に好んで食べるように 、昔から言われていますがこれは全く誤りです。比較の問題ですが、ヒグマが好んで食べるのは同じサトイモ科でしかもミズバショウと混生していることも多いザゼンソウの方です。ただし、ザゼンソウは寒冷地にはありませんから、ザゼンソウが生えて居ない大雪山や知床五湖辺りでは、ザゼンソウの代わりにミズバショウを食べています。6月になりますと、羆は高山にハクサンボウフウ、チシマニンジン、ハイマツ・タカネナナカマド・ウラジロナナカマドなど草や木の実を食べに上がってきます。低平地から山地の森林帯にかけて別種の街路樹としても植えられている、ナナカマド S. commixta が在りますが、この実は、ヒグマは希にしか食べない。ヒグマは異臭プンプンたる腐肉も食べる。したがってヒグマは自然の清掃者とも言えます。

[24] 2013 年の9月 20 日の新聞各紙、道新は 9/20 によりますと 、今年は全道的にドングリの一種であるミズナラが凶作で、熊の出没が増えると、道が予想との記事が出ましたが、けっして凶作ではありません。北海道のドングリ類には ( ミズナラ・カシワ・コナラ・ブナの 4 種 ) が該当しますが決して凶作ではない。私は自宅側の公園で、毎年ミズナラのドングリの成り具合を調査していますが、決して凶作ではない。また各地で熊の調査をしていますが、熊の糞にドングリが含まれているのが、今年も各地で見られています。

[25]  羆は作物では甜菜・南瓜カボチャ・水瓜スイカなど甘い農作物・果実蜂蜜が 特に好きですが、稲・麦・蕎麦ソバなど甘くないものも食べます。そして時には、人や家畜を襲い食べることもあります。

[26] 次ぎに羆による人身事故について、お話しします

私は 1970 年〜今日に至るまで 44 年間、羆による人身事故を検証していますが、羆が人を 「襲う原因は、 3 大原因として、最も多い物で、人を排除するために襲う場合」 で、具体的な原因は、不意に人に出会った場合、子を保護する場合、人の存在が障害となる場合など、また撃ち損じた猟師を襲う場合等です。 

第2の原因は 満2歳代の熊が 、山菜採り出来る山の中で、戯タワムれ苛立イラダちから人にちょっかい出して来ることがあります。

第3の原因は、 人を食べる目的で襲う場合で 、羆は人を襲い、食べることがあります。その場合、その場で食べることもあるし、食べずに自分が安心できる場所に人を引きずって行って、枯れ葉や土等を遺体に被せることもあります。 本州以南に居る「月輪熊」は人を食べる目的で、襲うことは無いようです

[ 27] 北海道で 1970 年から今日 (2013 年 10 月末 ) に至る 44 年間に 、熊による人身事故は、 81 件発生しています。この内猟師が撃ち損じて逆襲された事件 32 件 ( 死亡 9 件、生還 23 件 ) 、一般人の事故は 49 件で、 ( 発生件数は年平均 1.09 件 ) 、内死亡が 20 件、生還が 29 件です。死亡 20 件の内、武器で熊に反撃したのは 1 件のみで他は、皆素手で熊に対抗し殺されている。これに対し、生還した 29 件の被害者は皆、鉈・包丁・手鎌・ハサミ等で、また武器になる物が無い場合には、石などを拾い掴み持ち、手足をばたつかせて、羆に積極的に、反撃しているのが特徴で、 ( 聴きとりをすると、被害者は、皆、無我夢中で熊に抵抗したと証言している ) いずれにしても、熊に積極的に抵抗反撃し生還している。襲い掛かって居る熊に反撃すれば、熊が更に猛り、被害が大きくなるではないかと、想像で反論する者がいるが、そう言う人には、熊による人身事件を複数例検証して見なさいと私は言うことにしている。 81 件の事例を検証した限り、そう言う事例は全くありません。

[28] 熊ばかりでなく、動物に襲われて、その難から己の身を守る原則は 相手に対し積極的に反撃することが原則であることは、人同士の場合も含めて動物界における基本原理常識です。

 

[29] 2013 年も道内で熊による人身事故が 4 件発生し 、内1件は猟師の事故で、他の3件は一般人の事故です。この3件の事故の内、 4 月 16 日の 瀬棚町での、山菜のカタクリ採りの 52 歳の女性は鳴り物も武器も不携帯で、熊に襲われ腕や大腿部の筋肉部を喰われ死亡した。それに対し、二件目の 4 月 29 日の 静内町での、アイヌネギ採りの 53 歳の男性は、熊に襲われ胸と腰背部に爪での浅い引っ掻き傷を受けたが、アイヌネギを切り取る為に持参した長さ 20cm 程の普通の紙切り鋏で反撃し、難を逃れている。また、3件目の 9 月 24 日の函館でヤマブドウ取りの男性が熊に襲われた事故は、被害者が高い場所の葡萄を切り取るために持っていた柄の長い剪定センテイハサミで応戦し難を逃れています。

 

[30]  アイヌは山野での熊に対し、如何に対処していたか と言いますと、万が一熊に襲われた場合の身の保全のために、男は外出の際、常に、左の腰にタシロ (tasiro=tasiho 、山刀 ) と言う刃渡り 30 〜 40cm 程の細身ながら、先が尖った鉈に似た刃物を着け、右の腰にはマキリ (makiri: 小刀 ) と言う刃渡り 20cm 程の小刀を着け携帯したとある。アイヌの女も普段から刃先が少し短いマキリを携帯していて、隣りの家を訪問する際もマキリを持ち歩いたとある ( このことは、アイヌの民俗学者である萱野茂さんが、アイヌの民具で、また松浦武四郎は廻浦日記に書いています。アイヌはこのように熊に対して用心していたと言うことです。

[31]  以上の実態からも、熊に襲われての生還には刃物での反撃で、熊に痛いと感じさせる ことが、有効な事は明白です。そこで、私が推奨したいのは、戦前から山子が持ち歩いていた鉈です。鉈は我が国で誰もが合法的に携帯し得、しかも熊に襲い掛かられた場合の有効な武器であり、鉈の携帯まで踏み込まなければ、熊による死亡事故は現状より減少させ得ない事を認識すべきです。

[32]  熊との遭遇を予防する手段として、 自然に無い音を出して進む事が有効ですが、ラジオは音が出っぱなしで、熊との遭遇 ( 異変 ) に気づき難いこと、小型の鈴は音が沢音でかき消され熊に音が届かないことがあるから不適で、ホイッスルが最適であることを私は強調したい。時々で良いから、ホイッスルを吹けば、その音は山中にこだまし響く。そうすることで、遭遇による事故は防げると私は確信しています。

[33]  それにしても、道の「あなたとヒグマの共存のために」 と言う道民向けのパンフレットには「熊に襲い掛かられたら ( これは爪や歯で襲われている状態を言う ), 首の後を手で覆い、地面に伏して死んだふりをして下さい。山に入る人は万一に備えて練習して下さい」とある。しかし私はこれは全く間違った対処法だと言いたい。これを作ったのは道職員で熊研究の第一人者として、マスコミによく登場する間野勉君、北大の坪田教授、登別の熊牧場の前田菜穂子君、知床財団の山中君ら、北大出の熊研究者、なる連中です。私から言えば、この対処法は妄言としか言いようがない。間野君は熊の攻撃は 30 秒から1分で終わるから其の姿勢で我慢せよと新聞に書いている( 2004,9/7 道新、それから今年の 10/14 道新に書いて居る)。皆さんどうですか、まず熊の爪や歯での攻撃に意識ある状態で無抵抗で耐え得る人間居るとお思いですか。こんな連中が道や札幌市の熊対策を、税金使い行っているんです。そして、マスコミは熊研究者として、持ち上げて居るんです。熊による人身事故を複数例検証してみれば、自分でも如何に無責任な事を言っているか分かるはずですが、していないから、臆面もなく言える訳です。これは無知として、見過ごせない事で、公務員らが言うべき事ではありません。

[34] 道や札幌市の 熊についての市民向けの啓発パンフ 、これも彼らが書いたものですが、羆の視力について、羆は聞く力 ( 聴力 ) は鋭敏だが、視力は良くないとかいている。しかし私の観察では熊の視力は非常によく、一瞬の目配メクバセで、人を識別しその人間を記憶する能力をもっているし(このことは、熊を目撃観察していると判る)、月が出ていない闇夜でも、水中の鮭鱒を岸辺から飛び込んで掴み取る視力があります。皆さんの中にも経験された方がいると思いますが、熊牧場で熊にビスケット等餌を投げ当えると、それが10数b離れて居ても、口や手で掴み取ることでも分かります。

[35]  彼らはまた熊対策として、唐辛子を主成分とする「熊除けガススプレイ」 を推奨していますが、これは、元々アメリカで、犯罪者対策で開発された物です。これは瞬時に襲い来る熊には通用しないし、風上に居る熊にも通用しない。しかも熊に3m以内に接近して噴射しないと効果がない。また、人が、このガスを、少しでも吸ったら、呼吸ができなくなる。肌にガスが僅か付着しただけで、皮膚が炎症を起こし、我慢できないうえ、目に入ったら、目を開けていられない、そう言う、しろものである。と言うこと。それを承知で、使うなら別ですが、私は、この「熊除けガススプレイ」は推奨しません。

 

[36] 熊に対して一般人は、どう対応すべきかを 、私が実際に行っている事をお話しします。

先ず、北海道で、山菜採りし得る場所は、熊と遭遇する可能性があることを認識し、その準備をして入るべきです。

準備として、ホイッスルと鉈を携帯すること。

そして、現場に入った場合は、熊が居ないか、辺り全体をよく見ながら進むこと。私は時々立ち止まって、そこから見渡せる範囲の山林や藪や両側の斜面を見、熊の有無や熊の痕跡の有無を探ります。

[37] 万が一、熊を見つけた場合は、熊が何をしているか見 、私の方によって来そうな場合は、穏やかな声で、ホッホッホッと声を掛ける。これで、多くの熊は声の主を見て、やおら、立ち去る。先日も知床で、私に気づかずに近づいて来る大きな熊と 20m 程の距離で出会い、ホッホッホッと声を掛けたら、その熊は終始穏やかな目(目付きが変わらない目)で、私を見て、やおら草付きの崖を10m程登り、私の後に下りて、ゆっくり立ち去って行きました。成獣の熊は大体、このような対応を人にします。

[38] 時に、熊は立ち上がって、人の方を見ることがあるが 、これは、熊が立ち上がることで、熊は目線を高くして、辺りを見やるために行う動作で、威嚇ではありません。

また、なかなか、熊が立ち去らない場合は、少し大声でホッホッホッと声を掛け、熊を動きを見ながら熊から離れる事にしています。

[39] もし、熊が近づいて来たら、ドスの利いた声で、熊を叱りつけること にしています。人が強いことを、熊に識らせること(これが最も肝心な事です)。知床の奥に 19 号番屋と言う漁師の拠点があり、 10 数人の漁師が、5月から11月末迄の間常住しており、そこは北海道で一番多く熊が出て来る場所で、私もこの10月から熊の調査で、この場所に行っているのですが、ここの 77 歳の大瀬さんと言う親方 ( 社長 ) は、昭和 39 年から50年間ここに、日々いて、日本で最も多くの熊に遭遇している人ですが、大瀬さんが言うには、熊が近づいて来た場合には、熊の目を睨みながら、ドスをきかせた声で、「コラット」と、言えば、必ず熊は立ち去る。なかなか、立ち去らない場合でも、幾度か「コラット」「コラット」と言えば、立ち去るもので、これまで何十頭もの熊を追い返したと言う事です。私は熊の目は見ますが、睨み続けることはせず、 目の表情から、熊の心を見やることにしています。熊は目で、いろいろな気持ちを語っています

しかし、私は熊に掛かられたら、ひるまず鉈で応戦することを、常に頭に置いて行動しています

 

[40] それでは、札幌の市街地に熊が出て来る本当の理由についてお話しします

まず、熊から見た札幌圏の自然について話しますと、

[41] 札幌圏では、札幌市の西部には山が連なって見えますが 、あの山地は標高が 1 00 m台から1 ,5 00 m弱の山が連なつていて、その殆ど全域が樹林地になつていて、その樹林地の幅はどのくらいあるかと言うと、樹林地の東端は市街地に接するいわゆる円山 (225m) や藻岩山 (536.8m) の東端で、そこから西ヘ向かって 36km から 40km の幅でずっと樹林地が続いている。そして、その樹林地の西側の大部分が熊の生息地 ( 熊が長期に利用している地所 ) になっていて、その反対側の東側は大部分が熊の出没地 ( 熊が時に利用する地所 ) になっていて、円山や藻岩山の樹林地帯も出没地です。札幌市の西部地域の環境を熊との関係で言うと、そういう地理的環境です。

[42] 私は 1972 年〜今日まで 42 年間分の、札幌圏で捕獲した熊の 捕獲地とその熊に関するデータを持って居ます。 1985 年( 29 年前)迄は、4月5月に定山渓の山奥で、もっぱら越冬穴に居る熊を、胆嚢 ( 熊の胆のことですが ) や、子熊を生かした状態で獲ることを目的に獲っていた。それ故に、当時、熊はそこから 12km も離れた藻岩や円山まで徘徊してこなかった。それを 28 年前から止めたために、熊が徐々に東の方に行動圏を広げ、ついに、 24 年後の3年前には、藻岩や円山で熊の足跡や糞が見つかるようになり、翌 2011 年からは(2年前)、夜市街地に熊が出て来るようになった訳です。しかし札幌圏での出没熊はいずれも、人に危害を与えていない。札幌圏での 1970 年以降の、熊による人身事故は、 2001 年 (13 年前 )5 月 6 日山菜採りで、定山渓の国有林で、 53 歳の男性が 8 歳 3 ヶ月令の雄熊襲われ殺された事件 1 件だけです。

 

[43]  熊が住宅地に出て来る原因についてお話しします これは札幌市にも当然当てはまります

熊の行動には必ず行動を起こす理由と目的があり 、それを的確に見極めることが人的経済的被害を予防する上で必要です。

[44] 熊の生活圏である樹林地から住宅地への熊の出没原因は4つあります

一番目は、母から自立した満1,2歳の若熊が(自立するのは5月から8月の間ですが)自分の生活圏を確立すべく森林地帯を探索徘徊していて、 ( 羆は 100% 森林に依存している種ですから ) 林地の端に来て、そこに人家があるのを見て、そこがどう言う所なのか、自分が生活地として、使える場所なのか否か、知りたいという、好奇心を起し、確認に出て来る。母熊と一緒の時は、母熊が人家の在る所に出る事は許しません 。札幌市で 2011 年 ( 一昨年 ) に円山や藻岩の市街地等に、そして 2012 年に藻岩・川沿・真駒内の市街地に等に、それから 2013 年9月 25 日から南区に出てきた熊、この熊は 9 月 27 日朝、報道陣に近づく素振りをしたと言う理由で殺されましたが、これらの熊はいずれもこの種の若熊です。 こう言う若熊は本能的に人を避けるために、日没から夜間そして朝方の間に出て来る。納得するまで出没を繰り返します。

 

[45] これは住宅地近くの樹林地を生活圏の一部としている若熊にとって 、その成長段階として、体験せねばならない掟とも言うべき行動なのです。人間の幼児が道路の横断歩道で、渡り方を大人から習う行為と同じ物なのです。そしてその場所が、自分の住み得る場所で無いことを悟ると、もう出て来ません。ところが、今年の道新の 9/4 付けに、石狩管内のクマの出没激減と言う記事がのり、それに間野勉君のコメントとして、昨年出没した若い熊が人間を怖いと感じる経験をして、今年は現れなくなったからではと推測する」と言う内容。私はこれを読み、今年はまだ、市街地に、好奇心を起し、学習に出て来る若熊がいないだけなのに、よくこんなこと言えたものだと感じました。ところが、9月 25 日から南区に熊が出て来た。そして27日にその熊は殺されました。この熊は 1 歳 8 ヶ月令の若熊で、今回初めて市街地に出て来た熊で昨年に引き続き出て来た熊ではありません。間野君は先の発言を今どう考えているか私は聞きたいものです。

 

[46] 滝野すずらん公園でも熊が出て騒いでいますね。 この施設は開発局の所管で、熊侵入防止柵として、2億円も掛けて、目幅 5cm の金網を高さ 3.5m で 7.4km 張ったが、効果が無く、私の助言で金網の上に地上 1.5m から上部に 10cm 間隔で有刺鉄線を張り有効化した経緯があります。今回は間野勉君と民間の調査機関に金をかけて依頼し、まだ熊が侵入した場所も特定し得ていないとの所長の話。だらしない限りです。

[47]  さて、札幌の市街地に出没している熊に付いて、 北大の坪田教授や道職員の間野勉君は未だに「人を恐れない新世代熊」と言い、斜里博物館の山中君は「迷い出て来たのだ」と、また坪田君はこの 10/22 の道新に「9月25日に出て来た熊について、豊平川伝い出て来て、迷って帰れなくなったのでは」とコメントし、これを、マスコミは真実として報道し続けて居るのが現実です。私から言えば、彼らのコメントは間違っていると言うことです。人を恐れないならば日中出て来ても良いはずだが出て来ない。迷い出ているならば、同じ熊が何度も出て来る事は無い。また、迷って帰れないなど有り得ない。これは熊の生態を多面的に調査研究していれば解る事です。私が言って居ることが正しいのです。その根拠は、出てきている熊の身体の大きさは皆 1.3m 以下です。これは満2歳以下で、しかも親からわかれて間もない若熊である証拠です。出て来ている場所の環境、それにその熊の行動から見て、好奇心で出て来ているものです。いずれにしても幾度か出没を繰り返すと出て来ませんでしょう。要するに、市街地は自分が住む場所でないことを悟り、出て来るのを止めたわけです。ここで大切な事は、この種の熊が人を襲った事例は、全く無いという事です。人を襲う事は無いのです。にもかかわらず、熊の生態に無知な研究者が拘わって居るために適切な対応が出来ず空騒ぎし、ハンターが出て警備し、市民の不安を煽り、殺す必要も無い熊をハンターに殺させているのが実態です。

 

[48] 来年以降も人家近くの森林に母から自立した若熊が生じた場合には、このような出没は今後も毎年起こります。 この種の出没を防ぎたいのであれば、バラ線で目幅 15cm で、高さ 1.5m 程の柵を造れば良い。電気柵は線が草と触れても地下に漏電し用を為しませんし。それを防ぐには保守管理に金が掛かりますから適しません。札幌市は熊対策費として、税金を、 2012 年は 1,575 万円、 2013 年は概算で約 1,800 万円、民間のエンビジョンという組織に丸投げして、山中に5m四方に有刺鉄線を張り、その囲いのなかに、異臭ふんぷんたる餌を下げ、そこに熊を尾引よせて、有刺鉄線に引っかかった毛を取り、 DNA 分析して、個体識別し、札幌圏の熊の生息数を調べると称しやっていますが、この調査手法は手法そのものが餌付けであり、熊の調査では絶対に行ってはならない手法です。こんな調査は熊にも人にも全く役立たない事です。生息数を把握したければ、新雪期に林道を車で走り、熊の足跡を見つけて、その足幅と歩様から、個体を識別し個体数を出せば済むことです。その経費で、バラ線の柵を張った方がよほど、市民にも熊にも役に立つ金の使い方だと言えます。

 

[49] 二番目の出没原因は、作物(農作物・牧草)・果樹 ( 果実 ) ・家畜・生ゴミ等を索餌採食するため 出て来る事があります。この種の熊は年齢・性別・母子・兄弟と言った要因とは無関係です。時に札幌の簾舞や白川で発生しています。これは、一時的に、最初の被害地に電気柵を設置することで、さらなる被害を防げます。

[50] 三番目は、樹林地から樹林地に道路を横断して移動する際や、樹林地を通って居る道路を横断する際に付近にある住宅地を通過することがあり 、車の運転手や歩行中の人に目撃されることがあります。母から5月6月に自立した若熊は知恵が未発達で人と遭遇する様な時間帯に出て来て横断する事があるが、それ以外の個体は本能的に人を避けて行動する特性が強く、人と遭遇し難い時間帯に通過する。札幌では定山渓への国道 230 号道路や北ノ沢や盤渓など山間部の道路で発生しています。

[51] 四番目は、その他の原因で熊が市街地に出てくることもある。

・稀であるが、発情期の 5 月 6 月に発情した雄を避けて雌が逃げ出て来る事がある。

・更にこれも稀ではあるが、母子で林地を徘徊中に市街地に近づいてしまい、子熊が興奮して市街地に出てしまい、心配した母熊も子について共に出て来てしまうことがある。一 2012 年に、斜里町の街中に出て来た母子熊がこれに該当します。

 

[52] 次に、熊の棲む北海道の自然との積極的な係わり方についてお話しします

道の前記パンフレットには、熊は危険なもの、恐ろしいものと言う前提で、「熊の糞や足跡、食べ痕を見つけたら、直ぐに引き返しましょう」と書かれて居るが、熊と積極的に共存すると言う観点から、これは消極的な姿勢と言うべきで、このような姿勢で熊を見る限り、熊との共存は出来得ない。熊は古来(有史以前)から北海道に棲んでいるのであり、熊が居る自然が北海道本来の自然であることを前提に、自己責任の下、積極的な姿勢で熊に対処することを啓発すべきであると提言したい。現に熊が度々出没する地所の住民(道民)は、熊が居て当たり前と言う意識で熊を見ている。この姿勢が熊が棲む北海道の住民の望ましい姿勢と言うべきです。熊の糞・足跡・目撃情報があったからと、自然遊歩道を閉鎖し入域禁止したりすべきではなく、自己責任のもと、「ホイッスルと鉈を持参」し、入域することを啓発すべきである。そうしなければ、いつまでも熊との共存はでき得ません。

 

[53] 私が「人と熊は共存すべきだとする理由について」 お話しします。

 この考えの根底は、この大地は総ての生き物の共有物であり、生物間での食物連鎖の宿命と疾病原因生物以外については、この地球上に生を受けたものは生有る限り、お互いの存在を容認すべきであるとする生物倫理、 ( これは、生物の一員としての人が、他種生物に為すべき正しき道 ) に基づく理念によるものです。北海道に何頭熊が居たって良いではありませんか。言うならば、熊による人畜及びその他経済的被害を予防しつつ、人と熊が棲み分けた状態で共存を図る事です。しかし、里に出没する熊の生態を見極めた対応の欠如から、世間を騒がせ、熊を含む野生動物の無益な殺生が、明治の開拓期以降、全く改善されず、今なお続いていることは甚だ遺憾だと言う事です。

 

[54] ここで、他の6種の熊類と異なる羆の特徴を一つあげるとすれば 、羆は毛色が多様なことです。全身ほぼ褐色毛、これを金毛と言い、白毛のものを銀毛、黒色を黒と言い、これら三色が混じったものなど 色々です。

首や胸に白毛のあるものも、一割ほど居ます。国後で昨年白毛の羆が見つかったと新聞に出たりしていましたが、これは、それほど珍しいことではありません。珍しいと言えば、昨年西興部で目が赤く全身の毛が白色の、身体の黒い色素であるメラニン色素を欠いたアルビノの羆が北海道では 338 年振りに見つかった事です。

 

[55] 最後に、アイヌと熊について、お話しします

アイヌは熊をカムイと称し、イオマンテ・イオマンデと称する日本語に訳すと、「熊祭り、熊送り」と言う儀礼を行っていましたが、それは、アイヌの自然観・物質観に基づくものなのです。アイヌは動植物など地上の自然物はアイヌの為に天上などに住む神が変装し地上に降誕した姿と見、アイヌが作った用具にも神が宿ると考えました。また自然現象である風雨・雷・地震なども、神の所作行動の結果と考えました。それで、アイヌが得た獲物は獲物を得た後、あるいは用具として利用したものはそれが不要になった後、変装していた神、あるいは宿っていた神を神の国に帰って居ただく儀礼を、広く行っておりました。ですから、熊送りの儀礼もその一つとして、行われていたもので、特別なものではなかったと私は解釈しています。 (了)

 




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